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  • 坂本葵 | Aoi SAKAMOTO

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2014年6月

2014年6月 3日 (火)

第46話 歌わぬ歌(五)

 そこまで気を回す必要はあるまいと思いながら、日疋が、なんとなくこの彫像のように取り澄ました顔へ、おやと驚くようなニュースをぶつけてやりかたった。

 が、鷹揚に首をかしげて挨拶を送り、靴音を高く響かせて部屋を出て行く笹島医学士の後姿を見送りながら、

「これなら、まず及第だ!」

 と、心のなかで叫んだ。それは、忌々しく、しかも晴れ晴れとした気持であった。

 笹島と入れ違いに、婦長に連れられて二人の看護婦がはいって来た。

「では、只今からこの二人を院長先生のお宅へ伺わせます。なにかご注意でも……」

 婦長は、厳粛なお辞儀をした。

「あ、そう、どうもご苦労さん……。僕からは別に言うことはないが……。まあ、しっかりやって来てくれたまえ。お世話になった院長先生の看護をするなんて、君たちとしては千載一遇だ、名誉とかなんとかは問題じゃない。親身になってあげられれば申分ないな。じゃ、行ってらっしゃい」

 石渡ぎんの視線が、ちらと彼を見あげた。もの言いたげな視線であった。彼は素気なく眼をそらして、くるりとデスクの方へからだを捻じ向けた。

 扉(ドア)のしまる音がした。

 彼は、溜息をついた。石渡ぎんを、もうこれ以上自分のそばへ寄せつけてはいかんなと思った。はじめは不用意に、一本気の彼女を、悪く言へばおだてて使おうとしたに過ぎぬ。ところが、最近では、其(その)信頼が別な感情に昂じて来ているのを、更に有効に利用していたと言えないだろうか? たしかに、そうなのである。この点、彼は、今となってなんと弁解のしようもないが、また、一方、それを自分の責任だとも思えぬ領域があって、ひとりでにおかしさがこみあげて来る。なぜなら彼は意識的にこの少女の歓心を買った覚えは絶対にないからである。なるほど時たま、身分の隔たりを無視して、仲間のような口の利き方をしたり、ほかの看護婦には見せないような私生活の一端をのぞかせたりしたことはある。しかし、彼女のために特別な将来を約束し、または、個人的な利益を計るようなことは主義としてしないつもりでいた。まして対手(あいて)の、こっちを信じきった、どうかすると、隙だらけの人懐っこさに、微笑をもって酬いることさえ思いつかなかったくらいである。ひと口に言えば、この女の盲目的帰依(ファナチスム)は、彼の心臓を素通りしてしまったことになる。いったい、これでいいのであろうか?

 彼は、そこで、彼女の美点を数えあげる。まず性質はどうかというと、あくまでも単純である。素直である。従って、その勝気は、陽性で、服従の快感を知ることと矛盾しない。この年頃の女には珍しく、世間を識っているようなところがあり、若干、センチメンタルではあるが、それは寧ろ、彼女自身の精神的粧いのようなもので生れつきの荒々しさ――野生に類するものを巧みに緩和しているらしくみえる。

 容貌について、彼は、正確な印象を頭のなかへ組み立ててみる。色が飛びぬけて白いという以外、どうと言って纏りのつけにくい顔である。見る度に中心の違う顔というのがあれば、まさにこの女の顔であらう。時には二重瞼で大きく瞬きをする訴えるような眼つきに気をとられ、時には、反りかえった上唇の無心な動きのみが心を惹くという風であった。なにはともあれ、それだけでも決して醜い女でないことにはなるので、彼もこのぎんという女に対する自分の迂闊な関心を、なんの理由に帰していいかわからなかった。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年6月3日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2014年6月 1日 (日)

第44話 歌はぬ歌(三)

 看護婦がたった一人、向うむきになって、器械の掃除をしていた。

「笹島先生は?」

 日疋の声に、ハッと後ろを振りかえったのをみると、それは石渡ぎんであった。

「あ、たった今までここにいらしったんですけれど……医局の方じゃございませんかしら……見て参りましょうか」

「よろしい、僕が行く」

 扉(ドア)を閉めようとすると、いきなり、ぎんはそこへ走り寄って来て、

「あたくし、お願いがあるんです。もう、とても苦しくって、我慢できませんわ。せめて附添の方へでも回していただけません? 先生方が、なんだか、変な眼でごらんになるような気がしてしかたがありませんの。別に勘づかれるようなことはないと思いますけど、自分で先生方のお顔をみる度に、ドキッとするんです」

 顔は伏せたままではあるが、胸にあまる感情をこめた、激しい口調であった。

 日疋はいっ時、黙って、彼女の肩先を見つめていた。が、静かに、笑いをふくんだ声で言った。

「うむ、おかしいね、そりゃ……。君はなんにも疚しいことをしてやしないじゃないか。自分の利益のために秘密を売るような行為とは全然違うんだ。そのことは、もう再三、僕も言ったつもりだが……しかし、君がいやだというなら、無理には頼まないよ。それに大体のことは、見当がついたから……」

 すると、彼女は、恨めしげに彼を見あげて、

「いえ、あたくし、決していやだとは申しませんわ。それどころでなく、自分の考えが少しでもお役にたつのかと思うと、うれしくって、うれしくって、早くそれをお耳に入れたいばかりに、肝腎の仕事が手につかないくらいなんですわ。でも、その後が、どういうわけか、人に顔を見られるのが怖いようなんです。ひとりっきりで、何処か暗がりにでもじっとしていられたらと思ふことがよくありますわ。それはなぜだか、自分にもわかりませんの」

「わかった。その話はいずれゆっくり聴こう。それじゃ、どうだい、しばらく院長の附添にでも行くか。今日、看護婦を二人寄越せって言って来てるんだが、事務長にもう人選はきまったかどうか、早速訊いてみよう。まだなら、君を一人いれることにしてもいいから……」

「あら、でも、それはいけませんわ。あたくし、それほどの資格はないと思いますわ」

「資格は僕が認めればいいだらう」

「そんなことなすったら、あとがうるそうございますから……」

「そうか。じゃ、院長の指名という形式にすればなんでもない。心配せんでいよ。その代り、院長の看護は立派にやってくれ」

 彼女の瞳は、一瞬、明るく輝いた。

「ええ、そりゃもう、一生懸命……」

 先例のないことではあり、糸田事務長は婦長の橋本相手に、まだ詮議を重ねていた。
 日疋は、二人を代る代る見くらべて、

「なんだ、まだきまらないの?」

「いえ、一人はよろしいですが、もう一人……」

「もう一人は、石渡ぎん。院長夫人のお名指しだ」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年6月1日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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