第44話 歌はぬ歌(三)
看護婦がたった一人、向うむきになって、器械の掃除をしていた。
「笹島先生は?」
日疋の声に、ハッと後ろを振りかえったのをみると、それは石渡ぎんであった。
「あ、たった今までここにいらしったんですけれど……医局の方じゃございませんかしら……見て参りましょうか」
「よろしい、僕が行く」
扉(ドア)を閉めようとすると、いきなり、ぎんはそこへ走り寄って来て、
「あたくし、お願いがあるんです。もう、とても苦しくって、我慢できませんわ。せめて附添の方へでも回していただけません? 先生方が、なんだか、変な眼でごらんになるような気がしてしかたがありませんの。別に勘づかれるようなことはないと思いますけど、自分で先生方のお顔をみる度に、ドキッとするんです」
顔は伏せたままではあるが、胸にあまる感情をこめた、激しい口調であった。
日疋はいっ時、黙って、彼女の肩先を見つめていた。が、静かに、笑いをふくんだ声で言った。
「うむ、おかしいね、そりゃ……。君はなんにも疚しいことをしてやしないじゃないか。自分の利益のために秘密を売るような行為とは全然違うんだ。そのことは、もう再三、僕も言ったつもりだが……しかし、君がいやだというなら、無理には頼まないよ。それに大体のことは、見当がついたから……」
すると、彼女は、恨めしげに彼を見あげて、
「いえ、あたくし、決していやだとは申しませんわ。それどころでなく、自分の考えが少しでもお役にたつのかと思うと、うれしくって、うれしくって、早くそれをお耳に入れたいばかりに、肝腎の仕事が手につかないくらいなんですわ。でも、その後が、どういうわけか、人に顔を見られるのが怖いようなんです。ひとりっきりで、何処か暗がりにでもじっとしていられたらと思ふことがよくありますわ。それはなぜだか、自分にもわかりませんの」
「わかった。その話はいずれゆっくり聴こう。それじゃ、どうだい、しばらく院長の附添にでも行くか。今日、看護婦を二人寄越せって言って来てるんだが、事務長にもう人選はきまったかどうか、早速訊いてみよう。まだなら、君を一人いれることにしてもいいから……」
「あら、でも、それはいけませんわ。あたくし、それほどの資格はないと思いますわ」
「資格は僕が認めればいいだらう」
「そんなことなすったら、あとがうるそうございますから……」
「そうか。じゃ、院長の指名という形式にすればなんでもない。心配せんでいよ。その代り、院長の看護は立派にやってくれ」
彼女の瞳は、一瞬、明るく輝いた。
「ええ、そりゃもう、一生懸命……」
先例のないことではあり、糸田事務長は婦長の橋本相手に、まだ詮議を重ねていた。
日疋は、二人を代る代る見くらべて、
「なんだ、まだきまらないの?」
「いえ、一人はよろしいですが、もう一人……」
「もう一人は、石渡ぎん。院長夫人のお名指しだ」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年6月1日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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