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2014年5月

2014年5月31日 (土)

第43話 歌はぬ歌(二)

 日疋は、われ知らず妙なジレンマに陥っていることに気がついた。志摩一家の運命が、今や自分の手中にあるという確信に燃えれば燃えるほど、啓子という存在が最も貴重な、そして危いものに感じられて来た。であるからこそ、自分のためにも、彼女のためにも、悔いののこらない処置をとらねばならぬと思ひながら、信じればほろ苦く、疑えばかすかな甘さが胸を這うのである。

「さては、参ってるかな、おれも……」

 笑おうとしても笑えないところをみると、これは冗談ごとではあるまい。

 卓上電話のベルが鳴った。

「もし、もし、あ、奥さんですか? 僕、日疋です……」

 志摩夫人は、早口に、看護婦はもうそちらを出たろうかと訊ね、主人の容体がどうも変だから、金谷博士に至急来て貰うようにしてくれと言い、ついでに笹島にもこのことを伝へて欲しいとつけたした。

「はあ、承知しました。看護婦は今すぐ差し向けます。で、意識ははっきりしておいでですか? 何処か苦痛を訴えられますか?」

 彼は、問い返した。

「いいえ、相変らず自分ではどこがどうだとも言わないんですよ、ただ、いかにもだるさうなんですの。眼の色でそれがわかりますもの、あたしには……。それに、今朝また、少しもどしましたのよ。自分で看護婦を呼べっていうくらいですから……。あ、それからね啓子がまたお昼からそちらへ寄ると思いますけれど、今日は早く帰るようにおっしゃってちょうだい。では……」

 なんという苦労を知らぬ声であらう。うっかりすると娘の啓子よりも若やいだ調子に聞こえるのは、ややもつれ気味の舌のせいであらうか。

 彼は、起ちあがって、大股に部屋を出て行った。

 事務室をのぞいて、糸田に看護婦の催促をし、更に医局の扉を押した。

 金谷博士は、回診の最中だということで、彼は、二階へ駈けあがった。内科の病室がずらりと並んでいる。多勢の医者と看護婦とを幕僚のように引連れた、矮躯長髯の博士は、今一室から次の一室に移ろうとしているところであった。

「先生、ちょっと……」

 日疋は、そう呼び止めて、急に此処で言うのはまずいなと思ったが、もう遅かった。

「院長の奥さんから、先生に是非、今日あちらへお立寄り願いたいというお言付ですが……。今朝から少しお元気がないというんで奥さん、心配しておられますから、……」

 それをみなまで言わさず、金谷博士は大きくかぶりを振って、

「今更、僕でもあるまいじゃないか。そりゃ来いというなら行ってもいいぜ、手をつかねて帰るばかりだよ。容体はもうわかっとるんだからね」

「しかし、奥さんの気休めということもありますから……」

「ああ、そりゃそう……当人が脈を取らせさえすりゃね。参りましょう。田所君にも立会ってもらおうじゃないか」

 その足で、日疋は、外科治療室へ飛び込んだ。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月31日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
 詳細はこちら

 
 

2014年5月30日 (金)

第42話 歌はぬ歌(一)

 それから一週間もたたないうちのことであった。日疋は午前中に外の用事をすまして、昼近く病院へやって来ると、事務長の糸田が眼の色を変えて、

「さっき院長のお宅から電話がありましてな、看護婦を二名至急寄越せというご命令ですが、人選は婦長に委せてよろしいでしょうか?」

 と、さも重大事が起こったという風に報告をした。

「さあ、そいつは僕にはわからん。金谷先生にでも相談してみたまえ」

「金谷先生では、ちょっと……。そいじゃ、まあ、こちらでよろしく取計らいましょう。しかし、院長が急におわるいんですかなあ。なんでも胃癌だという噂ですが。ほんとうでしょうか?」

「ねえ、君……」

 帰って行こうとする糸田の背中へ、彼は鋭く呼びかけた。

「この病院のことは君が一番よくご存じの筈だが、笹島先生以外に院長のお嬢さんをねらってる若い医者はいなかったのかねえ。話を持ち込んで断られたというような話は聞きませんか?」

 糸田は、この出しぬけの質問にちょっと間誤ついた様子であったが、ようよう、眼尻に皺を寄せ、

「さようですな、そんな話はどうも聞きませんでしたな。というのが、あんた、あの啓子さんという方は、ここ四五年、病気というもんをなすったことがありませんのでなあ」

「病気をしなくったって、君……」

「いや、ですから、つい、お嬢さんがあることだけを知って、お顔を見たこともないっていうのが大部分でしょう、殊に新しくはいった方は……」

「ふむ」

 と、彼は考えて、

「今度、笹島先生との話がきまったのについて、部長の田所先生に仲人を頼んで断られたというのはどういう訳だろう?」

「ああ、そいつはね、田所先生っていう方は、そういうことがお嫌いなんですよ。偏屈と言っちゃわるいが、とっても世間ばなれのした方でね、まあ、ごらんになってわかる通り……」

「そりゃわかってるが、別に笹島先生に対してどうこうというんじゃあるまいね」

「笹島先生は、正直なところ、よく言う人とわるく言う人がありますな。わたしどもは立派な方だと思ってますよ。若いに似合わずよく気のつく方でね。看護婦なんか蔭でいろいろ言いますがね、みんな、それ、妬きっくらですよ」

「あ、今の看護婦のこと、早くせんといかんね。それから、今日は啓子さんのみえる日だったかね? ちょっと調べてくれたまえ」

 日疋は、何か急きたてられるような思いで、じっと机の前に坐っているのがひと辛抱だった。泰英の容体については、もう既に直接、君だけにはと言って、ほんとのことを打ち明けられていたから、今更、それほど驚きはしなかったが、若しも、今日明日に万一のことがあったら、いろいろ面倒な問題が起りそうにも考えられた。

 第一に志摩家の経済状態が明るみへさらけ出され、整理のプランを一部分変更しなければなるまいし、ことによると、病院の機構改革は、忽ち暗礁に乗りあげるものと覚悟しなければならぬ。

 が、それと同時に、啓子の縁談は果たして、順調に進められるであろうか? もとより、その点は、相手、笹島の肚ひとつに違いないとは言え、その笹島が、博士なきあとの、言わば没落した志摩家の娘啓子をなんと見るかであった。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月30日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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2014年5月29日 (木)

第41話 宣告(九)

「いま笹島先生に会ったから冷かして来てあげたわ。だって、あの方、論文がパスするまでは奥さん貰はないっておっしゃってたのよ」

 女史はいきなり、彼の腰かけるべき椅子を占領してしまったので日疋は、逆にお客のような位置で畏まっていた。

「で、ご相談とおっしゃるのは?」

「え? 相談? なんの? あら、あたしそんなこと言ったかしら……?」

 急に想い出せないと、そんな風なとんちんかんな訊き返し方をする女がよくあるから、彼は黙って相手にならずにいると

「ああ、そうそう、こりゃ別のお話だけど、病院でベッドお入用ないかしら?」

「ベッド……? そりゃどういうんです?」

「新しいベッド五十ばかり……スプリングは和製だけど七年間保証をつけるんですって……。実はね、親戚のもので帝大の××内科に勤めてたのが、今年開業するっていうんで、郊外へ小さな病院を建てたのよ。そりゃいいけど、いよいよ引っ越しをしようっていう段になって、ぷいと気が変って地方の病院へ副院長で傭われて行っちまったんです。そこへ注文で作らせたベッドが出来あがって来たでしょう。建物はやっと買手がついていまアパートに模様替えの最中なんだけれど、みんな日本間にするんだからベッドはいらないっていうし、あとを頼まれたあたしが困ってるんですよ。なんとかしていただけない? そう言っちゃなんだけど、ここのベッドはあんまりひどすぎるわ。特等だけでも、新調なさるつもりで、それ使ってちょうだいよ。今あるのは、そのうちご増建になる施療の方へでもおまわしになればいわ。ねえ、そうなさいな。一台六十五円なんだけど二割ぐらい引いとくわよ」

「糸田君に話してごらんになりましたか……」

「いえ、まだ……。あのひと、ケチだから駄目。賄のわるいことじゃ評判ですよ、この病院は……」

「それが事務長の責任ですかねえ?」

「あたりまえじゃないの、材料費を無茶に節約するからだわ」

「しかし、調理の方は……」

「ええ、ええ、そりゃ、栄養食の方は、あれでも専門家よ。普通患者の献立と来たら、箸にもフォークにもかかりゃしないから……」

 日疋は、その洒落をキョトンとして聴いていた。

 と、その時、扉(ドア)を叩く音がした。精神病科の医局員で、橋爪といふ新進の博士であった。

「日疋君、いま忙しい? や、今日は奥さん……」

 と、両手をポケっトに突っ込んだまま、無造作に頭を下げた。

「いや、別に……。奥さんとの話はもうすんだ。まあ掛け給え」

「じゃ、ちょっと二人きりになりたいな」

 橋爪が独言のように言った。

「あら、お邪魔……どうも失礼……」

 女史は起ち上がって、二三歩扉(ドア)に近づき、そこで日疋を振りかえった。

「じゃ、ベッドのことはどうかお考えになって……。その代り、またあたしでお役に立つことがあったら、なんでもどうぞ……」

 それから、つかつかと日疋のそばへ寄って来て、急に声をおとし

「本郷のお邸お手ばなしになるんですって……? あたし、心当りがあるから、ちよっと話してみましょうか? 二十五万っていうとこね」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月29日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2014年5月28日 (水)

第40話 宣告(八)

 日疋は、笹島という名を聞くと、やっぱりそうだったのかと思った。彼はそういう問題にまで立入る必要もなかったし、義務も感じないほどであったが、ただ、啓子という娘の運命がこれできまるのかと思うと、ちょっと侘びしい気がした。彼女が生涯の道づれとして選んだ男を、容赦なく批評の眼でみることも興味のあることだった。

 しかし、それよりも、彼の心のなかに、啓子の美しさ、異性としての魅力がどれほどの作用を及ぼしているかという点で、この時ほどはっきりと自分の感情をみせつけられたことはない。それは眠っていた意識が呼びさまされたというかたちではあったが、彼は、どうしようもないこの「空虚なわだかまり」をもちあつかいかねて、一つ時、泰英の言葉が耳にはいらぬ状態であった。

 彼は、鎌倉山から病院へ帰って来る途中、ふと、何時か動物園でみた鷲のことを想い出した。その鷲は檻の中で例の泊木の枝に止ってじっと前方を見つめていた。雀が一羽、檻の隅にからだをすくめて、金網の外から白い腹を波うたせているのがみえる。鷲はそんなものには眼もくれないという風であった。長い時間がたった。彼は息を殺してみていた。と、なにに驚いたのか、雀は、小さな羽ばたきをひとつすると、ぷいと金網をはなれて飛び立った。鷲の眼が光った。その瞬間、あたりの空気が、大きく揺れて、物々しい翼の影が檻いっぱいにひろがるとみると、もう雀のからだは、黄色い鷲の爪の間でぐったりとしていた。

 彼は今、その光景を再び眼の前に描いて、思わず眉を寄せた。

 病院は丁度昼休みの時間であった。

 自分の部屋へはいる前に、ちょっと事務室をのぞくと、

「おや、さっきから、あなたをお待ちしてましたのよ。折入ったご相談があって……今、十分ほど、五分でもよろしいわ。お耳を拝借……」

 そこにいた一人の中年の婦人が、寄り添うように声をかけた。

 それは大串民代と称する此病院の言わば常連なのである。時には外来として、時には見舞客として、またどうかすると、別に用もないのに廊下や医局の前をぶらぶら歩きまわり、若い医者や看護婦をつかまえてお愛想をふりまいていることがある。見たところ服装もなかなか洒落ているし、話すことも常軌を逸してはいないから、みんなひと通りの敬意を払い、快く相手になるという具合であった。が、それにしても、どこか、何かが変わっていることは事実で、ちゃんと名前を呼ぶものはなく、蔭ではただ「女史」といふ綽名で通っていた。聞くところによると、この病院にはもう十幾年以来出入をし、入院だけでも七八度といふ記録保持者で、月に一度は少くとも自分で新しい病気を作って来るか、初診の患者を紹介してよこすのである。

 日疋は何時の間にかこの「女史」と懇意な口を利くようになり、思いがけない時に、主事室の扉(ドア)を叩かれるようなことがあった。

「伺いましょう? 僕の部屋へいらっしゃいますか?」

 彼は先に立って歩きだした。

「いよいよ結納のお取りかわしがあるんですってね。超スピードじゃないの」

 啓子と笹島との噂を最初に何処からか聞き込んで来てそれを彼の耳に入れたのはこの大串夫人だったのである。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月28日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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2014年5月27日 (火)

第39話 宣告(七)

「誰です、そんなこと言ったのは?」

 笹島は、信じられないというような顔つきで問い返した。

「それが、小学校の女の先生なんですの。ご自分が生徒にミシンを教えてらっしゃる経験から普通の知能をもっている場合には考えられないことだって、はっきり断言なさったんですって……。それを聞いて来た友達が、あたくしにその話をして大悦びなんですの」

 そう言いながら、啓子も、思い出し笑いをした。

「へえ、そういうことを断言する女の先生の顔が想像できますね。あなたのお友達が、その話をまたあなたにして聞かせたというのも面白い。こいつはよほどあなたを信用してかかる必要があるから……」

 と、笹島は、自分でその言葉の裏に気がつかぬらしく、あとは平然と煙草に火をつけた。

 が、啓子は、そこで、冷やりとした。さも自分でもその説を否定するような結果になることをどうして気づかなかったのであろう? 彼女は、話の筋道をもとへ戻さねばならぬ。

「ねえ、先生、あたくし、一度、そういう心理試験みたいなことをしていただこうかと思うんですの。神経科の方ですかしら、それは……?」

「冗談言っちゃいけませんよ。神経科でも何処へでもいらっしやるのはご随意ですが、そういう試験なら僕で沢山でしょう。たとえ、あなたの脳に欠陥があったとしたところで、誰がその欠陥を埋めてくれるんです? 精神病学はまだそこまで発達していませんからね」

「父は自分が死んだら病院で解剖して貰うんだって言ってますわ」

 と、突然、彼女は口の中で言った。

 笹島は、驚いて顔をあげたが、啓子の表情は水のように澄んでいた。

 泰彦夫婦がやがて姿を現わした時分には、二人はもう何もかも話はすんだという風であった。

 で、啓子は、いよいよその週の終りに、身のまわりの荷物といっしょに鎌倉山の方へ移ることにしたが、そこで母の切り出した第一の話というのが、笹島との縁談についてであった。

「お父さまも、今のうちに早く話をきめといた方がいっておっしゃってるから……あなたさへよかったら、すぐにお返事をしようじゃないの」

「お任せするわ」

 きっぱりと、啓子は答えた。

 それ以来、学校の帰りに病院へ寄るという一日おきの日課が、啓子には、まったく新しい意味をもつようになった。

 たいがい、巻換えがすむと、廊下の途中や、玄関の降り口で笹島が彼女を待っていた。

「今日はずっと家へ帰りますか?」

 そういう具合に話しかけることもあり、

「五時に手があくんですがね、どっかでぶらぶらしてて下されば、僕、お送りしますよ」

 と、その通り、鎌倉山まで一緒に話しながら帰ることもあるのである。

 もう六月にはいろうとしていた。

 別れしなに、軽く握手をする習慣もついた。

 日疋祐三が、泰英から、娘の縁談がほぼきまったから、費用万端のことは妻の意見もきいてなるべく奮発して貰いたいという相談を受けたのは、その頃であった。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月27日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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2014年5月26日 (月)

第38話 宣告(六)

 と、笹島は、こんどは、キッと顔をあげ、彼女の視線を追うように、

「順序としては間違っていないつもりですが、今日、直接、あなたのお返事が伺えれば、それはそれで、一つの形式ですから……。僕は、どうも……なんと言いますか……こういう時の言葉を用意していませんが、要するに、あなたに笹島の姓を名乗っていただきたいんです」

 そこまでひと息に言って、彼は、ぐいと唾をのんだ。

 啓子は、真横ではあるが、全身を彼の前にさらしているだけに、顔の向け方に困ったが、それでも、相手の言葉を時々は眼で聴くだけの余裕をもっていた。

 二人の視線が、一つ時、結びついて離れないような状態になった。啓子は、これはいかんと思いながら、咄嗟に、

「思召はありがとうございます。でも、あたくしこそ、こういう時になんて申しあげていか……第一、考えてみなくっちゃなりませんもの……」

 と、ほんとに考えるように首をかしげて、やっと反対の方へ顔を反らした。

「お考えになる暇はいくらでもあると思います。それで、僕は希望を得たわけです。あとは、僕という人間をできるだけ正確につかんでいただければいいんです。あなたが僕に何を求められるかということは、追って詳しく伺うことにします。幸福とは愛するものに総てを与えることだと信じているからです。僕は一生涯食うだけのものは持っています。学問に仕えるといふ道は、ただ自分を精神的に富ませるという悦びのために選んだんです。人間として生きる上での僕のイデオロギイは、理想的な社会を目指す前に、理想的な、少くとも、充実した家庭生活というものの建設に生命を打ち込むことです。それは、勤勉な医師としての立場と矛盾はしないという確信が僕にはあるんです」

 こんな熱情が彼のどこにあるのかと思われるほどであった。

 しかし、啓子は、はじめて聴く異性の心の告白としては、妙に堅苦しいものをまず感じないではいられなかった。彼女がもし、夢のうちにある男性の求愛の言葉を想い描いたとしたら、もっと違った響きをもつものであったろう。それは、支離滅裂な表現でもかまわない。なにかそこには、理屈を飛び越えた、空気のようにふわりとした、肌で感じるよりほか感じようのないものが貫いている筈である。

 彼女は、それを、笹島の科学者という特性に帰してしまいたくなかった。自分にも罪があるのだと、ふと、平生この相手に示していた素っ気なさを思い出していた。

 で、急に、自分を励ますように、彼女は、おどけ顔をして言った。

「あたくしが指に怪我をしたことで、ある人がなんて言ったかご存じ?」

「知りません」

 彼は続けざまに瞬きをした。

「脳に欠陥がありやしないかですって……」

「ノオ?」

 と、彼は訊き返した。

「ええ、脳……ここ……頭のことですわ」

 彼女は、左手の人差で軽く脳天をつっ突いてみせた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月26日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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2014年5月25日 (日)

第37話 宣告(五)

 笹島は隙をみて啓子に話しかけた。

「どうも長くかかって申わけありません。あれっぱっちの傷と思って安心してたんですが、お嬢さんの指は、よほどデリケートだとみえて、普通の経過をとらんですよ。そのくせ別に、今のところ悪性な徴候がないんですよ。自然になおるものがなおらんというだけの話で、医者はただ、天を恨むばかりです」

 啓子は笑いながら答えた。

「厄介な患者をお引受けになって、さぞご迷惑だと思いますわ」

 すると、彼は、慌てて、

「いや、いや、僕はただ、弁解をしてるだけです。これがもし、普通の患者だったら、わざわざ治療を長びかせてるんだなんてデマを飛ばされるところですよ」

 これを聞いて、三喜枝は、容赦なく突っ込んだ。

「あら、啓子さんならどうしてそうじゃないっていう理由がたつんですの? もっとも、これは冗談だけど……」

 笹島は赤くなった。が、すぐに、

「どんな嫌疑でも僕は甘んじて受けます。但し、僕の憐むべきプライドは、あの傷を手品のようになおしちまって、お嬢さんに、――どんなもんですっていう顔がしたかったんですからな。はははは、こいつはさんざんでした」

 自嘲にしては屈託のない調子で彼は、わざと三喜枝の方へ頭を押えてみせた。

 こういう雰囲気は啓子にとって決して居心地のいいものとは言えなかった。しかし、食事が終ってサロンへ引きあげてから、兄夫婦は、それぞれ用事にかこつけて席を外してしまい、笹島と二人きりぽつねんと取残された自分の気持に、彼女は、なにか底知れぬ好奇心のようなものがのぞいているのにハッとした。

 笹島はスタンドの光を斜に浴び、僅のビールに酔ったせいであらうか、やや息苦しそうに肩で呼吸をしている。整いすぎた鼻の形から来る冷たさも、今夜はそれほどどぎつく感じられず、寧ろ、あの瞬間に明滅する瞳の輝きとともに、自分の才気をもてあます弱気な性格のシンボルのようにうけとれたのである。

 少し黙っている時間が長すぎると、彼女はじりじりしはじめた時、笹島は、組み合わせた脚をほどくといっしょに、重々しく口を開いた。

「今夜、偶然、こういう機会を作っていただいて、僕は感謝しています。恐らく、あなたはまだ何もご存じないんじゃないかと思ひますが、実は、僕、親戚の者を通じて、お父さんまで不躾けなお願いをしておいたんです」

 彼は、からだこそぐっと乗り出しているが、視線は伏せたままで、じっと後の言葉を探している様子であった。

 もう、その先は聴かなくってもわかってもいるが、彼女は、不意をくった形で、胸が痛いほどの動悸を、無理に押し静めようとした。

 その努力で、眉がひとりでに動く。彼女は、次第に自分の表情に気をとられていく自分を意識しはじめた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月25日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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2014年5月24日 (土)

第36話 宣告(四)

 笹島から人を介して、泰英に啓子を貰えないだらうかと申込んで来たのは、つい一週間ほど前のことであった。

 泰英は、それを妻の瀧子に伝え、瀧子は、直接この話を娘の耳に入れることを躊躇した。ことによると、当人同士、もうある程度の了解がついているのかもしれず、そうだとすると、不意にこっちからそんなことを切り出して、娘をどぎまぎさせるのは罪だと思ったからである。

 で、主人もあの男ならと言っていることだし、寧ろ、それとなく周囲から、二人の自由な接近を助けるように仕向けて行く方が、結婚の形式としても理想的だと判断したので、早速、泰彦夫婦に宛てて、瀧子は事細かに公の交際ができるような方法を取ってくれと頼んだことが、抑も、今夜の招待となって現れたのである。

 啓子は、今朝兄嫁の三喜枝から夕食に一人お客をするから、あなたも是非接待役に出てくれという話で、うっかり承知をしてしまったのが、病院へ行って、はじめて、笹島の口から、それがばれてしまった。彼は何時になく玄関まで彼女を送って出て、「今夜、兄さんから御招待を受けて、お宅へ伺うことになっています。ゆっくりあなたともお話ができると思うと楽しみです」と、独りぎめにきめている様子なので、彼女はすっかり面喰らった。

 こういうことに敏感なのは彼女に限ったわけではあるまい。なにかあるなと勘づくと、もう、彼女は、今夜の食事にはつきあいたくなかった。

 というのが、笹島なる男を、平生、彼女は、主治医として以外、特別な興味でみていたことは事実だが、それは寧ろ、客観的に、一風変わった当節の青年として、その身嗜みや言葉使いや、いくぶん芝居がかりのポーズなどを面白く眺めていたにすぎず、これが評判の秀才と聞いてなるほどと思う節はあっても、およそ自分の好みとは縁のない人物のように感じられていたのである。しかし、何処と言って、別に反感をそそるようなところは殆どなかった。つまり、見かけよりは軽薄でなく、妙に澄ましていても、それはそれでひとつの愛嬌だという風に、彼女はみていた。指の傷をいつまでもなおしてくれないのは、腕が怪しいと言えば言えるが、その熱心さだけは買ってやらねばならぬ。

「別に深い意味はないのよ。まあ、あなたが診てもらってるお礼っていうようなつもりならいいでしょう。うちの病院のひとにどうするってわけにいかないから……」

 兄嫁にとうとう丸め込まれ、啓子は、それならと言って、素直に我を折った。

 笹島は、部長の手術に立ち合ったというので、少し時間より遅れてやって来た。

 兄とはあまり親しい間柄ではないらしく、どちらも突っ込んだ話は避けているやうであった。笹島の方が五つ六つ年下でもあり、こちらは院長の息子という地位もありで、自然、ギコチない隔たりができるのを、三喜枝は巧にその間を取りもち、ひっきりなしに話題を提供した。こういう彼女の才能にかけては、まったく敵わぬといふ気がし、啓子は、そばで、ただ相槌をうつだけであった。

 ところが、食事の最中、音楽の話がでて、俄然、笹島と兄との間に、活発な議論の応酬がはじまった。兄の近代音楽に関する知識は、笹島の足許にも及ばず、三喜枝の覚束ない助太刀は、いよいよ笹島の薀蓄に輝きを添えるばかりであった。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月24日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月23日 (金)

第35話 宣告(三)

「あたし、兄さまにちょっと伺いたいことがあるんだけど……」

 啓子は、外から帰って来たままの服装で、ハンドバッグをきちんと小脇に抱え、まだ指に包帯をしていた。

「ああ、それより、啓ちゃん、あなた、鎌倉山から学校へ通うようになるですって……」

 と、傍から三喜枝が口を出した。

「そう、どっちでもいわ、あたし……。ねえ、兄さま、あとでお暇ないこと? なんならお義姉さまでもいいの……」

 更に、彼女は、そう言いながら二人の顔を見くらべ

「なんだい、訊きたいことって……。此処じゃ言えないのかい?」

「言えないわ」

 軽くそう応えて、そっぽを向いた彼女の初々しい傍若無人さに、日疋は、思わず微笑を漏らし、

「僕はもうお暇しますよ。ついでだから、啓子さんに僕からお伝えしておきますが、今度この邸を引払っていただくことになりました。あなただけは鎌倉山の方へお移り願います。事情はもうおわかりになっているでしょう。これから先、どんな変動があなたのご一身上に起るかということは、今、僕の口から具体的には申上げられませんが、少なくとも、志摩家のお嬢さんで暢気に構えていらっしゃるわけには行くまいと思います。いよいよとなってはもう遅いんですから、今のうちに、ぽつぽつ用意をなすって下さい。じゃ、今日はこれで……」

 日疋が出て行った後で、啓子は、いま彼の言った言葉をもう一度心のなかで繰り返してみた。兄夫婦は、黙って、それぞれの視線を宙に浮かしている。

「訊きたいことって、なんだい、啓子……?」

 泰彦は、彼女の方に向き直った。

「随分変な人ね、日疋さんって……。いきなりあんなこと言うの失礼だわ」

 啓子はなんでもないように言って、ふと気を取り直し、

「お二人ともどうなすったの。悄げてばかりいらしっちゃ駄目よ。あたしはもう平気だわ、どんなことになっても……」

 兄嫁のそばへ行って腰をおろそうとした時、三喜枝はずけずけと言った。

「そりゃ、あなたは平気よ。どうせ、お嫁に行くひとなんだもの。そう、最近の候補者のなかに、素晴しいお金持ちはいない?」

 それには応えず、啓子は兄に向って、更に問いかけた。

「今夜のお客さまってどなた? あててみましょうか? 笹島さんでしょう? ほら、隠してらしってもわかるわ。どうもおかしいと思った……」

 すると、兄は、妻の三喜枝を顧み、

「君、喋ったね?」

「あら、喋りゃしないわ。ねえ、啓ちゃん。第六感でわかるんだわ、きっと……」

「笹島を食事に呼ぶのがどうして変だい?」

 と、兄は、とぼけてみせた。

「笹島さんをお呼びになるのはちっとも変じゃないわ。じゃ、あたしは、今夜、失礼してよ。あしからず、お義姉さま……」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月23日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月22日 (木)

第34話 宣告(二)

 本宅を処分する代りに小じんまりした洋風の住居を提供すること、自動車は一時に廃止せず、自分で運転するという条件で、小型の安いのと買いかえること、雇人は女中一人というのを二人にし、ほかにコックを残すこと、経常費三百円が五百円、夫婦の小遣が百円のところを二百円にすること、これで、とにかく話が纏った。

 この譲歩は、日疋としては予め考えていたことで、これによって泰彦夫婦の気持を幾分でも謙譲にしようと企んだのである。

 啓子は鎌倉山から学校へ通うことになった。

「まあ、それでやってみることにしよう。自信はさらさらないがね。ははははまるで手も足もでないよ」

「考えただけでもぞっとするわ。もう、外へ出ないこったわ」

 夫婦は、気まずげに顔を見合せた。

「まったく僕としても、ご不自由はお察ししますが、また一方、それほど気を落されるようなことじゃないと思うんです。贅沢は習慣ですからな、結局……」

 と日疋が慰めるように言った。

 が、この時、なにを感じたか、泰彦がやにわに煙草の吸殻を床に叩きつけ、そいつを荒々しく踏みつけるといっしょに、叫んだ。

「そんな無茶な話はない。僕は不承知だ。断然、君の提議は拒絶する。今の約束は取消しだぜ。ああ、そんな、人を馬鹿にしたような相談は引っ込めてくれたまえ。今迄通りの生活ができないというんなら、僕は別に生きていなくってもいいんだ。いったい、君は、われわれをなんだと思ってるんだい。食うために生きてる人間と同一視してるのかい?」

 日疋は、それを聞いて、かっとなったが、――待て待て、此処だと思いなおし、

「いや、同一視してはいません。ですから、ことをわけてお願いしてるんです。十年間辛抱して下されば、きっと現在の状態まで復活させてお目にかけます。僕にはそれ以外の野心はないんですから……」

 そう言って、彼は、そこへひろげた書類をしまいはじめた。

「ねえ、あなた、日疋さんが折角ああおっしゃるんだから、できるかできないか、思い切って試してみましょうよ。あたしはもう決心ついたわ。その代り病気だって言って誰にも会わないから……」

 三喜枝が、半分諦め顔で、例の投げやりな調子で言うのを、

「僕は一度おやじに会うよ。これでいいのかどうか、ちゃんと返事を聞いて来なけりゃ……。いったい全体、こんなになるまで僕になにひとつ相談しないっていうのは可笑しいじゃないか。三喜さん、君だって、そりゃ変に思うだろう?」

 泰彦は、飽くまでも愚痴っぽく、妻への気をかねながら、左右へ当りちらした。

 が、日疋は、切りがないとみて、最後に、

「では、僕はこれで失礼します。あ、それから、お住居のことですが、これは早速……」

 と言いかけたところへ、啓子が、突然はいって来た。
 三人はそれぞれ意外な面持で、この美しい闖入者の顔を見守った。

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月22日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月21日 (水)

第33話 宣告(一)

 債権者は、取引のある一二の銀行と泰英の乾分関係を除いて徐々に強硬な態度を示しはじめた。もはや、万事を日疋との交渉に俟たなければならぬと知り、彼らは、あらゆる手段に訴えて、急速な債務の履行を迫って来た。

 もちろん、そのひとつを打ち棄てておいても、事態は容易ならぬ方向に転回して行くであらう。第一に、内情の表面化を恐れねばならぬ。信用のあるうちに片づけるというのが、この道の原則だからである。が、志摩博士の経済的信用なるものは、世間一般からはともかく、金融方面では、まったく地に墜ちていることがわかった。

 日疋は、更に博士の英断を乞い、一挙に不動産の大部を手放して、根本的な整理、つまり生活の最大限度縮小を実行することにした。

 先ず現在使用している鎌倉山の別荘を除いて、他の別荘、家作、農園、その他思惑で買ったそこ此処の土地全部の処理、本郷の邸宅は、これも適当な買ひ手がつき次第売り払うこと、年々きまって出している諸種の団体及び個人への寄附金の停止、自家用自動車二台の全廃、病院以外の傭人の大半解雇、等々から手をつけねばならぬ。

 彼は、今朝から本宅の応接間に陣取り、泰彦夫婦に対して、事ここに至った経緯を詳しく話して聞かせ、さて、最後にこう結んだ。

「志摩一家の危急を救うために、また老先生の御心痛を軽くするために、もはや、これよりほかに方法はないと思います。病院も時機をみて、株式か財団組織にするつもりです。で、この方から、院長とあなたのとこには相当の俸給を差上げることにし、そうなれば、一段落、整理がつくわけです。現在の予算で、もう既にお馴れになったことと思いますが、今度は大分思いきった削減ですから、よほど覚悟をしていただかないと……」

 それまで、うんともすんとも言わず、じっと彼の方をにらみつけていた泰彦と妻の三喜枝は、この時、同時に口を開いた。

「整理整理って君は言うけども、いったい、僕らの体面っていうもんはどうなるのかねえ」

「そう簡単に考えて下すっちや困るわ。もう少し目立たない方法がありゃしないこと? 誰か有力な人に相談してごらんになった?」

 泰彦は、そこで急に起ち上って部屋の中を歩きだした。と、日疋は、そっちへは目もくれず三喜枝の今の言葉に応えて、

「有力な人っていいますと?」

「例へば財閥関係なんかでよ、お父さまのお名前で、少しぐらいの無理は聴いてくれそうな人が……」

「あると思っていました。僕も……。ところが、ないですね、実際は。一口、十五万という大金を信用で貸してくれている人物がいますがね。これが、先生を見損ったと言ってるんですから……」

「実家(さと)の父に話してみようかしら……」

「お話いたしました、もう……。子爵閣下は……苦笑なさいました」

 三喜枝の父は、泰英に若干の恩借があることを、その時日疋に告白したのである。

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月21日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月20日 (火)

第32話 青葉若葉(十)

 石渡ぎんは、日疋の力を籠めて言う「わかったかい」に、はっきり、「ええ」と答えたかったのだが、唇がひとりでにふるえて、どうしても声が出ない。ただ、大きくうなずいたものであった。

 やがて、すしが運ばれ、二人は箸を取り上げたが、日疋は相手におかまいなく、瞬くうちに一皿を平げて、あとは悠々と彼女の食べっぷりを見物していた。

「随分お早いのね」

 彼女はやっと三つ目を食べ終ったとこだから、これにはあきれた。

「ああ、僕は、飯は早いよ。腹へ入れさえすればいいんだから……」

 じろじろ見られているのはいやだが、このひとの前で気取りは無用だと思うと、やっと箸の運びも活発になった。

「それで、どうだい、早速訊くがね、医者仲間の対立関係というか、まあ、各部のにらみ合いだな、それがあることは聞いてるんだが、君たちの気がついてることで、直接僕の参考になるようなことはないかね?」

 日疋は、切り出した。

「さあ、そういうことで、なにかあるってことはわかりますけど、例をあげるとなると……。でも、あたくしたちの眼には、先生がたで仲のいい方なんてないと思いますわ。うわべでは調子を合わせてらしっても、蔭ではきっとお互いに軽蔑してらっしゃるように見えますわ。現に、外科の方では部長先生以外の先生方は、レントゲンを取るのに、わざわざ患者さんをよその病院へおまわしになるんですもの。――うちのレントゲンは駄目です、なんて、公然とおっしゃってますわ」

「駄目なのかね、ほんとに……?」

 日疋は、意外な顔をした。

「あたくしたちにはよくわかりませんけど、やっぱり感情問題じゃないかと思いますわ。そばで伺ってて、いやあな気がいたしますもの」

「そりゃそうだらう。部長はそれでも、そこは心得ているんだね」

「ええ、部長先生は、とても、病院のためを考えてらっしゃいますわ。その点では、ほかの先生がたは随分無責任なんじゃないかと思うんですの。ぐっと若い先生がたは、こりゃ別ですけれど……。ご自分の研究が主ですし、俸給だっていくらもお取りにならないし……」

「おい、おい、そんなことまで君たちは知ってるのかい?」

「たいがい見当がつきますわ、そりゃ……」

「笹島君が院長のお嬢さんをねらってるっていうのは、ほんとかい……」

 突然そんなことを言いだした日疋の顔を、ぎんは不思議そうに見直した。

「誰からお聞きになりましたの?」

「誰でもいいよ。笹島君っていうのはどんな人だい? 君たちの受けはいいの?」

 そういう噂の出どころについて、ぎんはまったく見当がつかなかった。ただ啓子の指の傷を最初に診て簡単な手当をし、隔日の巻替にちょいちょい顔をみせて、二言三言口を利いている様子では、別にこれと言って変なところはない。

 笹島医学士は、看護婦仲間の鼻つまみであった。高慢でキザだという定評なのである。

 が、ぎんの頭のなかを、いま渦巻いているひとつの幻影は、この間自殺した堤ひで子と、彼笹島との、自分以外には誰も知らない関係であった。

 咄嗟に、ある激しい感情に襲われた彼女も、しかし、そのことだけはまだ日疋の耳に入れるのは早いと気がついた。

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月20日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月19日 (月)

第31話 青葉若葉(九)

 横浜を通る頃には、ぎんはもうすっかり啓子のことは忘れていた。

 それにしても、何時かのことがあって以来、はじめてこうして口を利くのに、日疋が、病院のことをちっとも言い出さないのはどういうわけであろう。あの時、いろんなことを訊かれたけれども、個人の問題に触れるようなことは、なんとしても返事をする気にならなかった。それが、今なら、どんなことでも、進んで答えられるのに――そう思うと、彼女は、少し寂しかった。

 ところが、いよいよ新橋へ来ると、日疋は、いきなり起ちあがって、ぎんに言った。

「君に少し訊きたいことがあるんだが、差支えなかったら僕の家まで来てくれないか? そのへんで食事をしてもいんだけど、人の目がうるさいからね」

「ええ、よろしゅうございますわ」

 彼女は、胸をおどらせながら、一緒に席を起った。

 タクシイで何処をどう通ったか覚えてはいない。

 降ろされたところは、暗い路地の中であった。が、表札に日疋とあったことだけはたしかである。

「ただ今……。お客さんを連れて来ましたよ」

 彼のあとについて二階へあがった。

 入れ違いに、女がひとり、階段を降りて行った。――奥さんかしら、と、振り返ってみたが、もうその姿は見えなかった。

 彼女は、急に不安な気持になりあたりを眺めまわした。別に立派なというほどの座敷ではなかった。細かく気をつけると、寧ろさむざむとしたもの、間に合せの住いという感じが、建具や装飾品のどれにもみえた。

――主事さんなんて、そんなに月給をもらってないのかしら?

 すぐにこんな考えが浮んだ。

「さあ、もっと真ん中へ座りたまえ。腹が空いたろう。いますしでも取るから」

 そこへ、さっきの婦人が茶を運んで来た。紹介されて、それが彼の兄嫁だとわかると、また彼女はどぎまぎした。が、今度は、すぐに平静をとり戻し、隣の部屋で日疋が洋服を脱いでいるらしい物音に耳をすました。

 和服に着替えて出て来た彼は、まるで別人のように若く見えた。すると、その調子まで書生っぽのような気軽さで、

「そんなに固くなるのよせよ。今日は友達として話すよ。君もそうしてくれ。もうだいぶん仲よしになったからな」

 その言葉を言葉どおりに受けとることは容易であった。彼女はちょっと膝を崩す真似をし、片手を畳について、指で代る代る拍子をとっていた。

「僕はね、君を見込んで、今日は、ひとつ、重大な役目を仰せつけるよ。いいかい、よく聴きたまえ。これはむろん、誰にも秘密だ。二人の命にかけてその秘密は守らなくっちゃいかん。君は、今後、僕の腹心になって働いてもらいたいんだ。腹心って、なにかわかるかい? 心を許せる味方だ。という意味が、僕の仕事はだね、こりゃなかなかむずかしい仕事で、場合によっては誰彼を敵に回さなけりゃならんのだ。それが敵とわかれば、文句はない。一刀両断さ。しかし、そいつがうっかりするとわからんのだよ。今、あの病院は、君の言うとおり、乱脈さ。大手術が必要だ。一日遅れれば一日黴菌がはびこるという状態だ。むずかしいことは言わない。君はただ、君の接している範囲内でこいつは病院のためにならんと思う人間の名前を、そっと僕の耳に入れてくれればいいんだ。わかったかい?」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月19日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月18日 (日)

第30話 青葉若葉(八)

 石渡ぎんは、ひとりで江の島の海岸をぶらつき、五時きっかりに大船駅へ戻って来た。なるほど景色はいいにはいいが、感嘆の叫びをあげるには連れのいないことが物足りなく、時々ハッとわれにかえると、こんなことをしていていいのかという風にわけもなく気がとがめた。

 広くもない待合室のあちこちへ急いで眼を配ってみたが啓子らしい姿はみえない。

 十分、十五分と、遠慮なく時間がたった。

 時間がたつにつれて、啓子と自分との間に妙な隔たりが感じられた。

 彼女は、無我夢中で切符を買い、丁度そこへ着いた上り列車へ飛び込んだ。

 と、すぐ眼の前で夕刊を読んでいた男が、前の席へのせている足をおろして、

「なんだ、君か、まあ掛けたまえ」

 帽子をかぶっているので、すぐにはわからなかったが、彼女は、それが日疋祐三だと気がついて、思わず、

「あらっ」

 と、大きな声を出した。

「はははそんなに驚くことはないさ。今日は休み?」

「はあ」

 やっとそう返事をしただけで、彼女は、もう顔をあげていられないほど真っ赤になった。

「そこ、空いてるんだよ。誰かと一緒なの?」

 日疋は更に訊ねた。

「いえ。……」

 口のなかで言って、彼女はそっと彼の前へ腰をおろした。

 下手に羞んでいるように思われるのはいやだが、どうすることもできない。しかし、それも瞬間のことで、だんだん落ちつきを取りかえすと、彼女らしい機転で、まず顔をぐいとあげ、目立つほどの溜息といっしょに、自分で自分を可笑しがるように笑いだした。

 日疋もつりこまれて、しぶしぶ相好をくずし、

「なにが可笑しいんだ? こっちに家でもあるの?」

 と、急に、真顔になった彼女はそれこそ行儀のいい小学生のような物腰で、

「いえ。あたくしの家なんて、病院の寄宿舎以外にございませんわ」

「ふむ、そういうひともいるんだね」

 彼は、感心したように首をふった。が、その、ぶしつけな視線を避けようともせず、彼女は、上目使いに、相手の表情からなにか打ち融けたものを読みとろうとしていた。

「先生はどちらへいらっしゃいましたの?」

 やっと、それだけのことが言えるようになった。

「僕? いや、ちょっと清水のそばまで用事があってね。昼すぎに院長の別荘を出て、一時何分からの下りだ。忙しい旅行さ」

「まあ、ほんとに……あたくしたち、二時ちょっと前に大船へ着きましたの。入れ違いでしたわね」

「へえ、君も鎌倉山かい?」

「いえ、あたくしは江の島見物……院長先生のお嬢さまと途中までご一緒でしたわ」

「ふうん……啓子さんね」

 その話はそれきりであった。

 やがて、日疋は、農園から土産に貰って来たという苺の箱をあけ自分がまずひとつ口へほうり込みぎんにも薦めた。

「うまいだろう」

 催促をされて、彼女は、ただ、眼を細くした。雄弁な味い方だと彼は思った。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月18日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月17日 (土)

第29話 青葉若葉(七)

 玄関をあがると、女中頭のしまが、

「おや、お嬢さま、ちょうどよろしいところへ……旦那さまがついさきほどから急に……」

「えっ? おわるいの?」

 と、啓子は、奥へ駆け込んだ。

 父の泰英はなるほど寝台(ベッド)の上に横になっていたが、傍の母とあたり前に口を利き、啓子がはいって行くと、

「どうしたんだ。今日は来ない筈じゃなかったのか」

 そう言いながら、眼じりに皺をよせて、思ったほどの容体でもないらしかった。

「いかが? しまやがおどかすもんだから、びっくりしたわ。お熱がおありになるの?」

 啓子は、それでも、なるたけ静かに話しかけた。

「もうなんでもないよ。かうしてるとおさまるんだ」

「お昼前に日疋さんが来てね、お昼を一緒に召しあがったの。ついさっき、日疋さんが帰ると、すぐよ、ああ疲れたっておっしゃるから、あたしが寝台(ベッド)へお連れしようとしたら、その場で召しあがったものをもどしておしまいになったの。お苦しそうでね、あたし、どうしようかと思った。ご自分じゃ、それほどでもないっておっしゃるんだけど……」

 母の瀧子は、応援が来たのでほっとしたらしく、ひとりでまくしたてた。

「もう、よろしい、そんな話はせんでも、……しばらく眠らしてくれ」

 やがて鼾が聞こえだした。二人は次の部屋へ引きさがった。そこは父の書斎と客間とを兼ねた広い部屋で、テラスから庭へ降りられるようになっている。

「どういうんだろうね、一度ちゃんと誰かに診察しておもらいになるの、おいやかしら……あたしのみるところじゃ、ただの胃腸ぐらいじゃないと思うね」

「お母さまが気をつけてらしって詳しい容体を金谷さんかなんかに話してごらんになったら?」

「それは、言われなくってもしてるんですよ。あの先生も頼りない先生でね。からだをさわってみなければなんとも言えないっておっしゃるんだもの……」

「お父さまは、どうしてそんなに意地をお張りになるの。家族のものが心配するってことぐらいおわかりにならないかしら……」

「ふたこと目には、――わしは医者だぞ、しかも、わしより見たてのうまい医者がいると思うか、こうなんだから……」

「そこを、お母さまのお口で、なんとか説き伏せなくっちゃ駄目じゃないの」

「あら、そんなら、あんたやってごらんよ」

 こんな風な話は、今にはじまったことではなく、おまけに、こいつは切りがないのである。

「とにかく、日疋さんが来なさるのはいいけど、お話がややこしいとみえて、いつもあとで大義そうなご様子なんだろう。あたしも気が気じゃなくってね。もう家の財産なんかどうなってもいいから、しばらくお父さまをそっとしといてあげたいよ」

 滅入るように黙りこんでしまった母を、啓子はどう慰めていいかわからない。

 二三度、父の様子を見に行き、庭へ降りて、芝生の一隅から水平線を眺め、ふと気がついた時は、もう時計の針が五時を過ぎていた。

「あ、しまったッ」

 啓子は、ぎんとの約束をすっかり忘れていたのである。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月17日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月16日 (金)

第28話 青葉若葉(六)

 スパイという言葉に、啓子は、ちょっと眼をみはったが、石渡ぎんは、急に調子をかえて、

「きれいね、お庭が……。鎌倉の方へは時々いらっしゃるの?」

 と言った。

「ええ、土曜から日曜へかけて大概行くわ。昨日は、でも、先生のお宅で集まりがあって夜おそくなっちゃったもんで……。丁度よかったわ」

「あちらではお待ちになってらっしるんでしょう?」

「ううん、電話かけといたから、大丈夫。それに、近頃は、臨時にちょいちょい顔を出すから……」

「院長先生のご病気はどんな風かしら?」

 誰言うとなく、病院では、院長先生は胃癌だという評判がたっていたが、石渡ぎんはそれをたしかめる勇気はどうしてもなかった。

「わりに元気よ。ずっと寝ていられないくらいですもの。ただ、目に見えてよくならないのが、じれったいわ。自分がお医者だと、からだより病気の方を大事がるみたいなところがあって……」

 啓子は、ほんとにそう思っていた。が、それを洒落ととって、ぎんは、にらむ真似をした。

やがて昼になった。帰るというのを無理に引止めて一緒に食事をした。

 それから、二階のホールでレコードをかけて聴かせ、読みたいという本を出して来てやり、バルコニイへ椅子を並べて、めいめいに読みはじめた。

 石渡ぎんは、しかし落ちつかぬ様子であった。

 場所に馴れないせいもあろう。が、それよりも、彼女の心がもうここにないのである。

「志摩さん、どっかへ行かない? 少し歩いてみない?」

 一時間もたたないうちに、彼女は、書物をテーブルの上へ伏せた。

「そうしてもいわ。どこ、行くとすれば……? 銀座?」

「どこだっていのよ。できるだけ遠くへ行ってみたいわ。今夜帰れさえすれば……」

 啓子は、この提議に応じて勢いよく起ち上がった。

「ちょっと待ってね、支度して来るから……」

 二人は東京駅から横須賀行へ乗った。三等車は相当込んでいたけれども、二人の席は楽にとれた。

「胸がどきどきするわ、こうして、旅行するんだと思うと……」

 ぎんは子供のように眼を輝かし、かわるがわる左右の窓を見た。

「あら、これが旅行? 大船までじゃ可哀さうね」

「そんなことないわ。大船なんてあたしたちには思いつかないわ。帰りに時間をきめといて、駅でお会いすればいいわね」

「どうしても寄らないっておっしゃるなら、それでもいいわ。あたしは、ちょっと家をのぞいて来ればいんだから……」

「でも、折角……」

「いいのよ、いいのよ……。明日学校があるから晩はどうせ泊まれないんだし、帰りは銀座でランチでもたべましょう」

 それで、大船へ着くと、五時まで自由行動をとることにし、啓子は、途中でバスを降りた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月16日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月15日 (木)

第27話 青葉若葉(五)

 日疋にお説教をされたことが、まんざらでもないようなところを、石渡ぎんは、そのうっとりとした眼つきにみせて、啓子を唖然とさせた。

「で、あたしに相談って、どんなこと?」

 啓子は、チヨコレートの銀紙をむきながら浮き浮きと訊ねた。

「ご相談っていうと大袈裟だけど、いつか病院のことでいろいろお話したいことがあるって言ったわね。なんかのついでに、院長先生のお耳に入れておいていただこうと思ってなの。それが、ほら、今度、主事さんって方が病院のことを一切お引受けになったんでしょう。だから、うるさい問題をご病気の院長先生にいちいちお聞かせすることはないと思うわ」

「ああ、そう……じゃ、あなたから直接、主事の日疋さんにおっしゃって下さるってわけね」

「ううん、ところが、あたしの口からは、そんなこと言えないのよ」

「あら、どうして……? さっき、なんでも平気で言えるっておっしゃったじゃないの」

「そりゃ、言おうと思えば言えるわ。だけど、事柄が事柄でしょう、変に取られるといやだから……。まるでお世辞つかってるみたいで……」

「病院のためになることなんでしょう。堂々とおっしゃればいいじゃないの」

「ええ、人の名前を出さなくってもよけりゃね……。どうせ、そこまで喋らないと気がすまないんですもの。あたしの身分ってことを考えると、少し、出しゃ張りすぎるように思って……」

「そうかしら……。なんなら、兄とお会わせしてもいいわ。兄の知らないことだってあるんでしょうから……」

「駄目よ、そりゃ……。若先生はあたしたち看護婦のためにいろんなことして下さるんだけど、妙にピントが外れてるのよ。おまけに……。あ、よそう、早速悪口になっちゃった……」

「なによ、ちゃんとおっしゃいよ。あたしが聞いて悪いこと?」

「あんまりよくもないな。言っちまおうかしら……。これだけは絶対秘密よ、実は、こういう噂があるのよ、若先生と皮膚科の都留先生との間に黙契があって、あの病院を都留先生一派で乗り取ろうとしてるんだって……。今、内科が振はないでしょう。だもんだから、誰か顧問に大家を一人連れて来ようっていうことになったらしい。院長先生はそれに反対なすってらっしゃるんですってね。ところが、都留先生には意中の人物が一人あるのよ。誰だとお思いになる? 遠山博士……ご存じでしょう? 都留先生の伯父さんに当る方……。大きな看板だわ、こりゃ……」

 こういう事情に通じていることは、いくぶん彼女らの誇りででもあるように、石渡ぎんは、そのくびれた頤をつきだして、いっとき相手の返事を待った。

「あたしにはそういうことさっぱりわからないけど……それがどんな結果になるっていうの?」

 この頼りない反応に、ぎんはちょっと焦れるようなかたちで

「ごめんなさい。あなたにこんなことお聞かせしてもしょうがないわ。どら、思いきって、あたし、スパイになろうかな……」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月15日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月14日 (水)

第26話 青葉若葉(四)

「学校時代にたった一度、お宅へ伺ったことあるわ、多勢で……」

 石渡ぎんは、あたりを見回すようにして言った。

「お節句だったわね」

「いえ、お兄さまがおうつしになった十六ミリを見せていただきによ。みんなが行くっていうから、あたしも何の気なしについて来たの。そしたら……」

「そしたらどうしたんだっけ?」

「お家があんまり大きいんでびっくりしちゃったの。それと、お母さまがやさしいお母さまで、あたし、なんだか帰りたくなくなったこと覚えてるわ」

「ほんと、そう言えば、あなた、あの頃からお両親がおありにならなかったわね」

「両親も同胞もないのは、あたしきりだったわ。でも、今のような仕事には、その方がいいんだって気がするのよ。結局、自分ってものを考えちゃいられないんですもの……」

 そういうことを、サバサバとした口調で、なんの誇張もなく言う、それが啓子には気持がよかった。

 八畳の日本間に、机椅子をおいて、本箱を飾って、簡素ながら女学生の書斎という趣がただ色彩のなかに示されているだけであった。開け放された縁の障子に、ぽたりといンキの汚点(しみ)がついている。

「こないだのお話、あれっきりになっちゃって……。どう、今度来た主事ってひとは? あたしはまるで知らないって言っていんだけど、評判わるかない?」

 啓子は、共通の話題を探さなければならぬ。

「実はね、そのこともあるんだけど、あなたに御相談があって来たのよ。病院のなかは、いま大変だと思うわ。あの方がいらしったのはそのためだろうとは思うけど、下手をすると却って始末のつかないものになりそうよ。主事さんて方、あたしは立派な方だと思うの。院長先生は、やっぱりああいう人物に目をおつけになるんだなと感心したわ。でも、ほかの人から見るとどうかしら……? 看護婦たちは、まあいのよ。先生方のうけが少しどうかと思うわ。殊に、外科のある先生が大きな声で悪口を言ってらっしたのを、あたし聞いたから……」

「ちょっとお医者さんとは合いそうもないわね。ガッチリ屋なんですって?」

「そう見えるわね。でも、話のとてもよくわかる方だと思うわ。あたし、ちょっとお話しただけだけど、理屈さえ通れば、この人の前で何を言っても平気だって気がしたわ。そんな風に頼もしいところがあるの……」

 そう言って石渡ぎんは、心もち頬を染めたのを啓子は見逃さなかった。

「へえ、ファンもあるわけね」

 啓子は、すかさず冷やかした。

 が、ぎんは案外平気で、

「こないだ、堤っていう看護婦が自殺したの、ご存じ?」

「ええ、聞いたわ。新聞にも出てたって……」

「あたしの親友なのよ、それが……。動機はもちろん単純なもんじゃないわ。婦長に叱られてなんて新聞に書いてあったけど、やっぱり恋愛の悩みからだってことは、あたしにはわかってるの。うん、まあ、そりゃどうでもいけど、その事件で、主事さんのところへ、あたし出かけてって談判したのよ。さんざん、逆にお説教されちゃった」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月14日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月13日 (火)

第25話 青葉若葉(三)

 こうして、この二人は、どんなことがあっても正面からぶつかるといふことはないのである。それも、どっちが相手をすかすというわけではなく、お互の性格、気質の特別な組合わせが、自然に相犯さざる関係を作っているらしく、それだけに、親しいのか、他人行儀なのかわからないようなところもある。

 三喜枝の、例によって羽目をはずす癖を、啓子はそれほど苦々しくは思わず、却て、それはそれで面白いという風に眺めていた。

 と、そこへ、啓子にと言って電話がかかって来た。

「あたしじゃないの?」

 と、三喜枝は念を押して、つまらなさうに口を尖らした。それへ、女中は、

「よくお声が聞こえませんのですが、女の方でイシワタとかニシワタとかおっしゃいましたようでございます」

「イシワタなんてひと、知らない、あたしは……。誰よ、啓ちゃん」

「ああ、わかった……石渡(いしわたり)ぎんさん……。あとでお話するわ」

 と、啓子はホールを抜けて階段を駈け降りた。

 電話口で、

「もし、もし、あたし啓子……。しばらく……じゃなかった、昨日は、失礼……。ええ、なんともないわ。包帯、もうとってもいんだけど、でも、指の色が変になっちゃったから、どうしようかと思って……。あら、そう、いいわねえ……。ううん、家にいるわ。……うん、それでもいけど、なんなら、すぐいらっしゃいよ。……いやだわ、そんな……大丈夫よ、だあれもいないから……。じゃ、お待ちしてるわ」

 三喜枝は、石渡ぎんが何者であるかを知って、

「へえ、そんなひとがあの病院にいたの。でも、よく遊びに来る気になったわ」

「どうして?」

「どうしてって、今の身分でさ。大概遠慮しそうなもんだわ」

「だって、あたしが遊びにいらっしゃいって言ったんですもの。それに……」
 と、言いかけて、啓子は、この兄嫁にこれ以上のことを喋る必要はないと気がついた。
 いつか病院の帰りがけに、電車道まで送って来ながら石渡ぎんが話しかけた話を、そう言えばその後つづけて聴く折がなかった。一日おきに病院では顔を合わせていながら、向うもちょうど忙しいらしく、こっちもつい、話を引出す便宜がないようなわけで、そのままになっていたのを、多分、彼女はもう待ちきれずに、今日やって来るのであろうと、啓子はとっくに察していた。

 で、ぎんが来ると、早速、自分の居間へ通して、

「ようこそ……。さ、ゆっくりなすってちょうだい。やっぱり、そうしてらっしゃると昔の通りね。白い服も立派だけど、その方がお話がし易いわ」

 と、彼女は、旧友石渡ぎんのキリリと結んだ帯へやはらかに微笑みかけた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月13日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月12日 (月)

第24話 青葉若葉(二)

――あなたと一緒にいれば誰も退屈はしない、という意味は……? むろん、兄嫁の言葉に皮肉が含まれている筈はなく、啓子は、それをまた皮肉と取るような風をする女でもなかった。至極あっさりと受け流して涼しい顔をしていられる得な性分であった。

「ねえ、啓ちゃん、それよりね、あなた近頃病院へ行って、あの日疋っていう男に会わなかった?」

 手摺へもたれたまま、三喜枝は、彼女の方へからだをねじ曲げた。

「会ったわ。どうして?」

「昨日あなたの留守に家へ来たのよ」

「そうですってね」

「あらもう聞いたの?」

「君やがそう言ったわ。あの方は一体どういう方でございますかって、さも不思議さうに訊くから、あたし、おかしくって……」

「だって、変ってるじゃないの。ちょっと家へ出入する人んなかで類がないわ。恰好が第一、運動選手の親分みたいでさ。横柄かと思うと、いやに慇懃なとこもあって、こっちは面喰うわ。面喰いもしないけど、取扱いに不便だわ。兄さまから伺ってたから、まあ、見当はついてたけど。……お父さまも、また、なんだって、あんな男に家のことをお委せになったんでしょう」

「それだけの腕があるとお思いになったんだわ、きっと……。わかりゃしないけど……」

「ねえ、わかりゃしないわよ。てんで、あたしたちの生活なんていうもんに理解がなさそうよ。どんな風に切り回すにしても、それを心得ててくれなけりゃ、他所とのお交際ができなくなるじゃないの」

「でも、あの人、そんなことまで干渉するかしら?」

「まあ、呑気なこと言ってるわ。あたしたちの生活費は、これからいくらいくらってきめられちゃったのよ」

「せんからきまってたんじゃないの?」

「大体はね、でも、要るだけのものはどっかしらからはいって来たけど、今月からは、予算を超過したら翌月分から差引くっていうわけなの。まるで、安サラリイマンの暮らしよ。その代り、支払万端のことは、あの人が直接やってくれるんですって……」

「呑気でいいじゃないの」

「兄さまはこう言ってらっしゃるわ――なに、どしどし買うものは買い込んで、あいつに払はしてやれ。払えなくなったってこっちの責任じゃないって……」

「それも一案ね。でも、あとで困るのはやっぱりこっちなんでしょう?」

「現金で買わなけりゃならないものが、ちょっとね、それだけが不便よ」

「あたしは、まあ、そんなに不便はないけど……」

「いいわね、鎌倉山へ行けば、さあさあ持っておいで、だから……。少し、こっちへ回しなさいよ」

「ええ、いくらでも……」

と、啓子は、真顔で言った。それが可笑しいと言って、三喜枝は、キャッキャッと笑った。
 植込のつつじの肉色に咲き乱れたなかを、どこかの猫が一匹、忍び足で逃げて行った。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月12日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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2014年5月11日 (日)

第23話 青葉若葉(一)

 本郷千駄木の、電車通りから離れた静かな一角に、大谷石を積みあげた塀が一丁も続いている大きな邸がある。鉄柵の門の扉に盾の模様をあしらった構えがちょっと見ると外国の公館そのままで、ただ門番小屋から、車庫(ギャレージ)の前を通って内玄関の前へ来ると、檜造の母屋の一部が植込の蔭からのぞいて、格子戸のなかの履脱ぎには、白トカゲの女の草履が一足、キチンと揃えてある。

 葉の出そろった朴の大木が、白い玉砂利の上にまばらな影をおとして、五月の微風は、青々と、匂うようであった。

 啓子は今日の日曜を鎌倉山へも行かず、兄夫婦を送り出して、ひとり静かに本でも読もうと思っていると、兄嫁の三喜枝が、出がけに、兄と言い争いをして、とうとう自分の部屋へ引っ込んでしまった。兄はめずらしく、啓子にも当りちらして、車を出させたのである。

 そのすぐあとのことである。

 二階のバルコニイで、啓子は、取り寄せたばかりの新刊の小説を読み耽っていた。

 近頃、目立って兄の機嫌がわるくなった。その原因は、彼女にも察しがつくので、それはお小遣いが以前ほど自由にならないところから来るのであった。

 だが、こういう一家の経済的変動も、啓子の身分では、まだそれほどの影響も受けず、洋服の注文をする時など、母の意向を訊いてみると、「まあ、それくらいのもんなら」と言って、造作なく承知してくれるので彼女の覚悟もつい鈍るという次第であった。

 それに引かえて、兄嫁の三喜枝は、時々欲しいものが手に入らないと言ってこぼすようになっていた。今日のどさくさも、もとはと言えば、彼女のおねだりが功を奏さなかったことにあるらしい。

「あーあ、着物きかえて損しちゃった……」

 あらわに、両腕を高く、伸びをする格好で、三喜枝は、再びそこへ現れた。

「せっかくよくお似合になるのに……」

 その方は見ずに、啓子は、書物から眼をはなしただけである。

「もうじき電話かけて寄越すわ。だって、あたしが行かなきゃ、麻雀できやしないもの」

「あら、今日はゴルフじゃないの?」

「この恰好で……? 冗談よしてよ。町田さんとこ、ほら、お座敷でしょう、洋服じゃ変なの、だから」

「あたしも、なんとかして遊びたいなあ」

 啓子は、思はず溜息をついた。

「だから、いつでも誘ってあげるのに、なんとかかんとか言って断るじゃないの?」

「ええ、そりゃそうだけど……やっぱり、なんかして遊びたいわ」

「そう言えば、啓ちゃんは遊ばないのねえ。たまに映画見に行くぐらいじゃない?」

「たまにね、ええ……。人と一緒に遊ぶっていうのが億劫なのかしら……? 第一、わたし、不器用だから……」

「勝負嫌いなのね」

「勝つのは好き、負けるのは嫌い」

「誰だってそうよ。いいから、ためしに、あたしたちの仲間入りしてごらんなさいよ。お友達もできるしさ」

「お友達なら、いくらだってあるわ」

「悪友がないだけか。ほんと、あんたには、遊ばしてくれるお友達がないんだわ。みんな、あんたと一緒にいるだけで退屈しないから……」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月11日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月10日 (土)

第22話 未知の世界(十三)

 日疋祐三は、眉をちょっと寄せたきり、黙って相手を見つめていた。

 思いがけない事件の発展に驚くというよりも、この女がなんのために、今、自分の前でこんなに泣いてみせるのか、そのわけが呑み込めなかった。

「なんて言ったっけね、その、君の友達っていう女(ひと)は?」

「堤さんです……堤ひで子……」

 顔をそむけたまま、やっと涙を拭いた彼女は、心もち釣りあがった切れの長い眼を、ちらと日疋に注いだ。

「で、堤君はどうして自殺する気になったの? 君はそれを知ってるんですね?」

「……」

「知ってるなら言いたまえ!」

「そりゃ、いろいろ複雑な気持からだろうと思いますわ。とにかく婦長さんから侮辱されたって、そりゃ口惜しがって……。でも、そんなことは、今さう言ってもしょうがありませんわ。ただ、あたくしの申上げたいことは、堤さんが潔白だっていうこと、婦長さんは何か誤解してらっしゃるってこってすわ。二人は平生から仲がわるかったんです。婦長さんは自分の気に入らない看護婦には、そりゃひどいことをおっしゃるんです。……」

「待ちたまえ。婦長の役目は、君たちを取締ることだらう。病院の規則を犯したものに叱言を言うのは当り前だ。君は、その点で堤君を弁護する余地がありますか?」

「でも、男の患者と映画を観に行ったことが、死に値する罪でしょうかしら?」

「馬鹿なことを言うね、君は……。死に値すると誰が言った?」

「結果はそうじゃございません? そこを考えていただきたいんです。あたくしたちは、もっと希望を与えられてもいいと思うんです。小さな過ちが眼の前を真っ暗にしてしまう、そういうことがあんまり多すぎるんです。この病院のなかで、どなたかが、それをちゃんとわかっていて下さらなければ、あたくしたち、働いている女たちは、不安で不安でしょうがございません……」

 石渡ぎんは、そう言って、ほつれ毛を両手で無造作にかきあげたそのままのかたちでいっとき、じっとしていた。何かを思いつめた女の、半ば自分を忘れたという風であった。

 が、この時、日疋祐三は、この女の皮膚の透き通るような白さに気がついた。彼は、その顔をのぞき込むように、からだを屈め、

「おい、君、そういうことをわざわざ僕に言いに来たのかい? しかし、君の友達は、今、死にかけているんだろう? どうして側についていてやらないんだ?」

 彼の探るような眼付をわざと避けるように、彼女は、声を落して言った。

「そうですわ。ほんとうはそうしたかったんです。でも、堤さんはもう助からないことがわかりました。堤さんが苦しんでるのを最初に見つけたのがあたくしなんですの、先生がたが駈けつけて来て下すった時は、もう遅かったんですわ。それに、堤さんは、あたくしがここへ来てることは、きっと知ってますわ……」

 この最後のひと言は、謎のように日疋の胸に残った。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月10日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月 9日 (金)

第21話 未知の世界(十二)

「その連中は、で、今、あなたの部屋にいるんですか」

 日疋は、「やれやれ、もうはじまったか」という気持で、糸田に訊ねた。

「いや、ひとまず引取らせました。何か要求があれば、そいつを箇条書にして来いと言ってやりました。なに、結局は、規則がやかまし過ぎるというわけなんでしょう。男の患者と一緒に外出するのがわるければ、同じ部屋に籠じ込めておくのはなおさら変じゃないか、なんて、図々しいことを吐かす奴もいましたよ」

「どうも僕にはよく呑み込めないが、大体、その多勢でやって来たというのは、病院に対するいろんな不満を言いに来たのか、それとも、何かひとつの要求を通すために、別の難題を持ちかけるわけなのか……」

「そこがどうも私にもはっきりしませんのですが、とにかく、橋本さんが一看護婦に対して病院を出ろと言ったことが、みんなを激昂させたらしいですな」

「だって、そりゃ……」

婦長が遮ろうとするのを、糸田は、

「いや、それを私が悪いというんじゃない。あなたには十分、それを言わなけりゃならなかった理由はあるでしょう。しかし、これは、主事さんなどもそうお考えになると思うが、女が女の過失を言々するというのは、どうもこりゃ、素直に受取られにくいんもんでしてな。そこに、なんと言いますか、妙な感情がはさまるように、私には思えてならんのだが……」

 橋本婦長は両手を前に組み合わせて、じっと下を向いている。

「よろしい。婦長さんに反抗したという、その本人を僕のところへ寄越して下さい。僕から解雇を言渡しますから……」

 日疋は、自分の部屋へはいるとソファーの上で長々と伸びをした。

「一度看護婦を全部集めてお説教をしてやるからな」

 広い講堂にずらりと並んだ白一色の彼女らの姿を想像し、彼はひとりでに微笑を浮かべた。が、考えてみれば、それらの顔のうちに、どれひとつ彼にとって馴染のある顔というものはなく、漠然と頭のうちに描かれた顔のひとつひとつが、ふと、さっき会った志摩啓子に似て来るのがおかしかった。

 もう昼に近いころだと思い、腕時計を見ると、まだ十時を少しまわっただけである。

 鞄へ入れてもって来た債務関係の書類を引き出して眼を通しはじめた。

 すると、その時、廊下を走るけたたましい足音が聞え、やがて、扉(ドア)の外で何やら言い争う女の声が、

「あんたは余計なとこへ顔を出さなくたっていいから、あっちへ行ってらっしゃい……」

「いえ、ほかの方では、お話がわからないんです。あたしは堤さんの代りに主事さんにお目にかかります……」

 日疋は、中から扉(ドア)をあけた。

 一人の若い看護婦が、引止めようとする婦長の手を振りはらって日疋の後へ回った。

「僕に委せておおきなさい」

 彼はそう言って、静かに、婦長の眼の前の扉(ドア)を閉めた。

「君かい、昨夜、患者と映画を見に行ったっていうのは?」

「いえ、あたくしじゃございません。それは堤さんていう方ですわ。あたくしの親友なんです。とてもいい方ですわ……。あ、あたくし、石渡ぎんと申します……」

「で、どういうわけで、その堤さんは来ないの?」

「だって……たった今、昇汞水(しょうこうすい)を……飲んで死にさうなんですもの」

 突っかかるようにそう言うと、彼女はいきなり、ハンケチを眼に押しあて、眉をふるわせて泣きだした。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月9日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月 8日 (木)

第20話 未知の世界(十一)

 日疋は、彼女の視線をまともに受けて、一歩後へさがると、黙って頭をさげた。

「あら、ごめん遊ばせ……兄さまお一人かと思って……」

啓子は、ためらうように会釈をして、更に兄の方に向い、

「まだ包帯とっちゃいけないんですって……。こんなに長くかかるなんて変だわ。笹島さんんってば、針に黴菌がついてたのかも知れないっておっしゃるのよ。なんだか、心配になって来たわ」

「知らんよ、僕は、そんなことは……。指一本ぐらいどうなったっていいじゃないか」

泰彦は、妹をからかうように言った。

「どうなすったんです、ケイ子さん……」

 と、日疋は、やっとこの時、五六年前に見た彼女の面影を頭に浮かべ、耳で聞いただけではあるが、その名前がふと口に出た。

「は? いえ、ちょっとミシンの針を刺しただけなんですの。ぼんやりでしょう」

 啓子は、別に相手が誰だということを気にもとめぬらしく、極めてあっさりそう答えて、眼元で笑った。愛嬌といふよりも寧ろ嗜みという感じの表情で、彼は二の句がつげず、肚の中で「畜生――」と唸った。

 が、彼女の方は、兄がこの男を改めて紹介するだろうと、いっ時立ち去るのを躊躇していたが、その様子もみえないので、

「じゃ、六時きっかりね、迎いに来て下さるわね、遅れちゃいやあよ」

 だんだんにからだを引きながら念を押すように言って、最後に、日疋の方へ、

「お邪魔いたしました」

 と、今度は前よりも他所よそしくヴェールの下でぱっと見開かれた眼がただ朝空のように爽やかな印象を与えただけであった。

「いずれ、詳しいご相談はお宅へ伺ってすることにします。それはそうと、病院っていうもんは、なかなか厄介なもんですね。こいつが商売になるところに、不思議なからくりがあるんだと思うが、僕は、志摩家の名誉のために、そのからくりを合理化してみようと思うんです。まず人事の問題から始めなければなりません。黙って見てて下さい」

 そう言い捨てて、彼が部屋を出ると、事務長の糸田が婦長の橋本と一緒に、慌ただしく駆け寄って来て彼を呼び止め、

「日疋さん、どうしたもんでしょう、看護婦の一部から穏かならんことを申出ているんですが……」

と、糸田がまず口を切った。

「さきほどちょっと申上げました、あの件について、早速本人を読んで説諭いたしたところ、いろいろ理屈を並べて反抗して来るんでございます。あたくし、これじゃ見込がないと思いまして、そんなら病院をやめたらどうかと申しましたんです」

 婦長は唇をふるわせながら言った。

「すると?」

 糸田が、こうしてはいられないというように先を促す。

「すると、そのまま出て行ったと思うと、しばらくして、ほかのもの十人ばかりを連れて、事務長さんのところへ押しかけたらしゅうございます」

「ええ、押しかけて来ましてね、てんでに病院の悪口、それも看護婦なんかに関係のないような、いやまあ、生意気千万なことを喚き立てる始末です」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月8日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月 7日 (水)

第19話 未知の世界(十)

 泰彦はソファーに埋まり、腕組みをしていた。強いて冷静を装おうとする風がみえる。が、そういう内心の争闘に馴れない証拠には、顔面の筋肉が硬直して、薄い口髭がギコチなくふるえていた。

「院長からは全然そういうお話はなかったんですか」

と、日疋は、いくぶん親しみを籠めて言った。

「いや、全然聞かないわけじゃなかった。しかし、君のいうように、今すぐどうなるという風には聞いていない。僕にだって用意があるからねえ。程度如何によっては、現在の生活を根本から変えてかからなけりゃならんのだから……」

「それを僕からも言いたいんです。まだ全体のことがよく頭にはいっていませんから、どこをどうするという案は細かく立ってはいません。しかし、この病院の経済だけは、健全なものにしておく必要があります。会計を調べたところによると、用途不明の金が直接お手許に行っているようですが……」

「用途不明ということはないさ。いちいちおやじの許しを得てるんだから……」

「院長のですか、それなら結構です。ところで、今後は、院長ではなく、僕の承認を得てということにしていただきたいんです。いずれ、経費の点は鎌倉の方と、ご本宅の方と、別々に予算を組んでそれぞれご相談をすることにします。大体の見当では、これまでの約十分の一に切りつめていただくつもりです」

「十分の一というと……?」

「年額、両方を合わせて一万五千円以下……」

「僕の小遣にも足らんね、それじゃ……」

「そんなことを言ってる場合じゃありませんから……」

「へえ、そういう計算がどこから出て来るのか、僕にはわからないんだ。それじゃ、まるで乞食の生活じゃないか」

「乞食の生活がどんなもんか、あなたはご存じですか?」

 思わず蔑むような調子になるのを、日疋は、じっとおさえて、

「おわかりにならなければ、いくらでも説明します。とにかく数字をごらん下さい。今のままでは、ここ一年、いや、半年を過ぎないうちに、志摩家は破産の宣告を受けるでしょう」

 破産という言葉で、泰彦は、にやりと笑った。糞度胸をきめたのかと言えば、決してそうではなく、相手のおどしを軽くあしらうつもりであった。

「君はたいへん志摩家のことを考えていて下さるようだが、僕と君とは、なるほど、二三度以前に会ったことがあるだけで話もろくにしていないし、いきなり、今、僕の眼の前で、そういう口の利き方をされても、どこまで信用していいのか、こりゃちょっと迷うからね。そりゃ、おやじが馬鹿に惚れ込んでるという話は聞いた。だからって、僕が君の言うなりになるとは限らんからね。そう、高飛車に出る手は、近頃流行らないよ」

 この啖呵は、日疋の眼には、他愛ない少年の拗ね方に似ていた。

「はははは別に高飛車に出るつもりもなかったんですが、言葉がつい荒くなったことは僕も認めます、喧嘩はよしましょう。とにかく、僕は、志摩家のために、献身的に働くつもりですから、どうか働きいいようにして下さい。それに……」

 と彼が言ひかけた時、ノックといっしょに扉(ドア)があいて、

「じゃ、お兄さま、あたし、お先へ失礼してよ」

 半身をのぞかせながら声をかけたのは、かすかに見覚えのある若い女であった。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月7日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月 6日 (火)

第18話 未知の世界(九)

 突然、荒々しく扉(ドア)を叩くものがある。

 日疋祐三は、それと察して、席を起った。

 見かけは瀟洒たる青年紳士で、以下にも洋行帰りのドクトルという押し出しもあり、いくぶん神経質らしい額を除いては、健康と贅沢に満ちた風貌の持主が、手を後ろを組んだまま、のっそりはいって来た。

「やあ、しばらく……。僕、泰彦です。こんどは病院のことで、お骨折りを願うそうで……」

 挨拶は挨拶だが、明かに敵意を含んだ語調である。

「これはどうもわざわざ……。一度お宅の方へ伺うつもりでいましたが、つい馴れない仕事に追いまくられて、失礼しています。今度院長から病院の管理を仰せつかりました。全責任を負えという命令です。及ばずながら、努力してみるつもりです」

 泰彦は、部屋の中をぶらぶら歩きまわっている。

「父からどういう風にお願いしたか知らんが、この病院は、われわれ志摩一家のものが、うちの病院と呼んでいる通り、これは決して他人のあなたが自由になるような性質のもんじゃない。僕は志摩家の相続者として、かつ、医者たることの義務上、この病院の管理について、若干の意見をもっている。それをあなたに承知しておいてもらいたいと思うんだ」

 あなたがあアたと聞こえる例の貴族的な発音が耳ざわりであった。

「もちろん、ご意見は参考のために承ります。あなたがそれほどこの病院の仕事に関心をおもちになっていることがわかれば、僕としても非常に気丈夫です。率直に言いますが院長はあなたを当てにしてはおられません。恐らく、真意が通じていないものと思われます。僕は単に、この病院の管理を委されただけではないんです。志摩家の財産全般――この点は、まだご承知ないかも知れませんが――志摩家の財政は文字通り危機に瀕している、それをなんとか切り抜ける方法について、僕は今研究中なんです。いずれ具体案を得次第、整理に着手します。ついでにお含みおき下さい」

 これを聞きながら、泰彦は、そっと立ちどまった。と、急に、日疋の方へ歩み寄り、

「君、そりゃ、ほんとですか? だって、そういう話はおやじから一度も聞いたことはない。誰からも聞いたことはない。自分の家の財政が苦しいなんていうことは、一番に僕が感づくわけなんだ。おやじは、僕が請求するだけの金を毎月寄越してるんだぜ」

「そうでしょう。だから来月から、僕が出さないようにしますよ」

 そう言い終るのを待たず、泰彦は顔色を変えて部屋を飛び出した。

 その狼狽ぶりは、誠にみじめであったが、少し薬が利きすぎて、何を何処で喋らぬとも限らぬ様子がみえたので、日疋祐三は、ひとまず彼を落ちつかせる必要を感じ、その後からついて行った。

 院長室のなかへ姿を消した泰彦を、再びつかまえることは容易であった。

「どうしました? そんなに驚くことはないじゃありませんか。もっと順序を立てて、詳しくお話すればよかったんだが、あなたの鼻息があんまり荒いもんだから、対抗上、僕も咄嗟に、自分の立場を守っただけです。病院は病院として、志摩家の財政問題は、将来、あなたにも考えていただいて、ひとつ、無理のないようにしましょう」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月6日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月 5日 (月)

第17話 未知の世界(八)

 昼近く、糸田事務長が頭を掻きながらやって来た。

「どうも弱りました。今朝、出がけに、本宅の方からお召しがありましてね、若先生から根掘り葉掘り、ご訊問です。いや、これにはまったく……」

「なんです、訊問とは?」

 彼には、まるで見当がつかない。

「ははは、あなたのことですよ。なんのために主事というようなものが必要なのか、と、まあこうなんです。院長がお見えにならんから、事務の代行をなさるんだって申上げますとね、そんな事務ならおれが執ると、えらいご剣幕です。しかし、院長先生のお考えできまったことですからと、わたしは逃げましたよ。するとね、今度はどうでしょう、それはお前がだらしがないからだ、事務長の上に主事がいて、お前の仕事はいったいどうなるんだと、こりゃまあ、一応、誰でも首をひねるところですがね……」

「ちよっと待ちたまえ。誰でも首をひねりますかねえ?」

日疋祐三は聞きとがめた。

 糸田事務長は、眼をぱちくりさせ、

「いやいや、事情のわからんものはです。と言いますのが、若先生は、やはりその、病院のことについては、ご自分にいろいろ意見がおありでしてな」

「へえ、どんな意見だろう? 早速伺いたいもんだな」

「今日、こちらへお見えになる筈です」

「いや、僕の方から出かけましょう。都合を訊いてみて下さい」

「そりゃまあ、どちらでも結構ですが、只今私の申し上げたことは、ひとつ、御内密に……」

 本宅へ電話をかけると、もう若先生はお出ましになったという返事である。

 が、それきり、日疋祐三は目の前の仕事に追われて泰彦のことをつい忘れてしまっていると、やがて糸田がまたやって来て、

「院長室までちょっと……若先生がお目にかかりたいとおっしゃいますから……」

 と言った。

「この病院のなかでは、僕を呼びつける権利のあるものは一人もいない筈だ。そう言ってください」

「はあ……。しかし……」

「しかしも糞もないでしょう? 自宅なら僕の方から出向いてもよろしい。勤務先では一医局員としての資格でお話し願いたい。御用があれば、ここでお目にかかりましょう」

 糸田は後ずさりをしながら出て行った。

 院長の志摩博士が、息子のことについて彼に一言漏らした言葉は、こうであった。
「泰彦は医者としては将来見込みはないと思う。もし学位でも取っていれば、副院長という名義にしておいてもいいが、それにしても、こいつは実力の問題でね、ほかの医者がおさまらんようでは困る。なにしろ、呑気坊で、君の相談相手にはならんよ」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月5日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月 4日 (日)

第16話 未知の世界(七)

「なるほど、男の患者と一緒に外出するとは規則違反なんですね。で、それを罰する方法はきまっていないんですか?」

「はあ、別に……」

「今迄、それに類したようなことはないんですか?」

「ございましても、これという証拠があがりませんもんですから……」

「じゃ、今後を戒めておけばいでしょう」

「いえ、そんなことでは、とても改まりっこはございません」

「ほう、すると、どんな程度に?」

「あたくしにはわかりませんですが、風紀の問題は、よほどやかましくいたしませんと……」

「同感です。では、思いきって首にしましょうか? どんな女(ひと)です、平生は?」

「あまりよろしい方じゃございませんのです。なにかにつけてほかのものを煽動するようなところもございますし……」

「ひとつ、事務長とも相談して、なんとか処置をしましょう。あなたは失礼だが、独身ですか?」

「はあ……どうしてでございます?」

「どうしてというわけもないが、ちょっと伺っておくだけです」

 強い近眼に特有の、あの瞳の据えた方で、彼をじっと見た彼女は、決して醜い方ではなく、白粉気のちっともない、引きしまった顔だちの、ちょっと仏像を想はせるような印象が彼の好奇心を惹いた。

「あなたは、橋本さんとおっしゃいましたね」

「さようでございます、橋本順子と申します」

「まあ、おかけなさい。病院のことをいろいろ伺いたいから……。どうです、看護婦さんたちは、大体満足して働いてるようですか?」

「あたくしは、満足して働いております。看護婦っていうものは、いったいに、不平家が多うございまして……」

「おや、なぜでしょう?」

「上の学校へ行きたくって行けなかったっていうものが多いせいじゃございませんかしら?」

「家庭の事情でね。つまり、野心勃々たる連中が多いわけですな」

「小学校の成績なんか、わりにいいものがなるようでございます。僻んだり、捨鉢になったりしなければよろしいんですけれど……」

「若いお医者さんと一緒に仕事をしていて、そんなに間違いはないもんですか?」

「さあ、世間ではそういう風にごらんになるようですけれど、あたくしの経験では……」

「いや、あなたの経験を伺ってるんじゃありませんよ、一般のことを知りたいんです」

「ええ、それが、一般に、そんなもんじゃないと、あたくしは思うんですけれど……。お医者さまの裏表をすっかり見てしまうと、あんまり興味がもてないんじゃございませんかしら……」

「ふん、そういうこともわかりますね。しかし、こういう病院なんかではどうなんです、或る先生が、ある看護婦さんを特別に可愛がるっていうような問題は? 現にそういう事実があるか知らないけれど、あったとしたら、相当うるさいでしょうね」

「ご想像に委せますわ」

 意味ありげな笑いを浮かべて、彼女は横を向いた。

 

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2014年5月 3日 (土)

第15話 未知の世界(六)

 病院はまだひっそりとしていた。

 下足番の退屈そうな顔が、彼を見あげただけで、別にこれという敬意も払わず、こっちが差出す足へ、形式的にカヴァーをかぶせ、ひとつ不景気なくしゃみをした。

 事務室も薬局も窓が閉まっている。

「お早うございます」

 入院係の女事務員が黒い上っ張りに袖を通しながら腰をかがめた。

「お早う。糸田君はもう来ていますか?」

「さあ、まだでしょうと思ひますが……」

「来たらすぐに僕の部屋に来るように言ってくれたまえ」

 彼は昨夜のうちに待合室のひとつを模様がえさせて、ともかく主事専用の部屋にした。
 玄関の突き当りが事務室、その左手が扉で事務長室に続いてい、事務室の右が薬局で、その隣がそうなのである。

 彼は真新しいデスクの前に座って、女給仕の差出す茶を啜った。

 ――さあ、なにから手をつけてやろうか?

 病院の経済状態は案外悪くないのだから、こいつを志摩一家の財政から切り離すことが急務だと、彼は考えた。

 志摩家の財産は、動産不動産と合して約二百五十万と見積もれば、借金の額とほぼ同額になる。北海道と静岡に相当の土地があり、本宅の外に別荘だけでも五ケ所に持っていて、それが何れも二番三番の抵当にはいったまま、利息も最近ではろくに払ってないという有様を知って、彼もちょっと辟易したが、志摩泰英という名前がまだ物を言ううちは、いくらか芝居が打てはしまいかと、あっさりこの難事業を引受けてしまったのである。

 なにしろ、病院からあがる収入は、この二三年、多少減じ気味ではあるが、それでもなお昨年末の計算では、一年に九万円を下らないという成績である。東京屈指の大病院として、まだ堂々たる貫禄を示していると言わねばならぬ。

 が、ここにひとつ、警戒すべき現象が起りつつあることを、院長は自らそれとなく語りもしたが、また、事務長の言葉のはしばしでも察することができた。

 それはつまり、志摩博士の診察時間というのがなくなってから、内科の患者数が徐々に少くなる傾向を示し、これに反して、皮膚科の評判が俄然高まり、都留博士の人気は、今や、他の部門の存在を掻き消すばかりになって来たことである。そのために、皮膚科全体の鼻息が荒く、若い医者までが肩で風を切って歩くという風が見え、内科などは、博士の顔が五人も揃っていながら、何れも腐りきって、責任のなすい合いを始める始末に、部長の金谷博士も、この体面をなんとか取り繕はねばならぬところから、頻に暗躍をはじめたという噂は事実らしい。

 こういう消息について、日疋祐三は、もっと深いところに触れたかった。

 扉をノックするものがある。

「はい」

 と、彼は、生れてはじめてのような返事をした。

 はいって来たのは、昨日たしかに紹介された看護婦長である。

「事務長さんがまだお見えになりませんので、失礼とは存じましたが、直接伺います」

「なんですか、ご用は?」

「実は、付添いの看護婦で、ひとり、昨晩、男の患者さんと一緒に映画を観に行ったものがございますんが、これは病院の規則で厳重に禁止してございますんです。今まで、こんなことは一度もなかったもんでございますから、どういたしたらよろしいか、お指図を仰ぎたいと存じまして……」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月3日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2014年5月 2日 (金)

第14話 未知の世界(五)

 翌朝、父の俊六は彼に訊ねた。

「どうだい、病院というやつは? 見込みがあるかい?」

「なかなか面白いもんですよ。腹を据えなくっちゃ駄目ですね。相手は病人かと思ったら、実は、医者ですよ。こいつ、首っ玉を押えてかからないと仕事になりませんよ」

 祐三はずばりと言った。

「しかし、お医者は、普通のサラリマンを扱うようには行くまい?」

 兄の計太郎は、この時、重い口を開いた。

「どうしてですか? おんなじでしょう。つまり、職業として徹底しない一面をもってるだけですよ。当人たちはそこが強味だと思い込んでる。ところが、こっちに言わせると、そこがつけ目ですよ。会社にいる技師なんかも共通なところをもってますが、子供みたいな自負心が、結局、先生たちを商売人と太刀打ちのできない人間にしてますよ」

 そういう彼を、驚いたという風に見直して、

「おい、おい、君はそれでいっぱし商売人のつもりかい? 台湾製薬の専務っていう将来の椅子を恩義のために棒に振る男が、いったい、算盤を言々する資格があるかねえ」

「はは、そりゃまた別ですよ。明日から食えなくなることがわかっていながら、上役の皮肉ぐらいに癇癪を起して、インキ壺を投げつける豪傑もいるんだからなあ。兄さん、もう役所勤めは諦めて、商売の方へ転向しませんか? 僕がやめたあとならいでしょう、台湾製薬でも……?」

「いやだよ。病院の事務員なんか、なおさらごめんだ」

「誰も、そんなこと言ってやしないじゃありませんか」

「いや、そりゃ、わしが言ったんじゃ、病院の事務の方に何か口がありゃせんかって……」

 父が独り言のように答えた。

「祐さん、誰がなんて言ったって駄目なのよ、この人は……。やっぱり内務省が好きなのよ。世界で一番立派なお役所だと思ってるんですもの」

 兄嫁の眞砂子は、夫の胸の底を容赦なく暴いて、淋しく微笑んだ。

「そりゃ、地方行政というもんは、言うに言われん面白味のあるもんじゃ」

 嘗ての県書記官は、憮然として呟いた。

 やがて、祐三は、席を起って洋服に着かえた。兄嫁は甲斐甲斐しくそれを手伝った。

「いいですよ、義姉さん、ほっといて下さいよ。だが、悪くはないな、そばからこうしてつぎつぎに取ってもらうのは……。これだって、上手下手はあるでしょう、どこの細君も義姉さんなみというわけにゃいかんでしょう?」

「あら、あたしそんなに上手かしら……? 兄さんには、毎朝一度ずつ怒鳴られるわ」

「兄貴の怒鳴るのは癖ですよ。ねえ、兄さん、覚えてる? 小学校を卒業する時だったかなあ、ほら、式があってさ、担任の先生が優等の名前を呼んだでしょう。兄さんの名前を呼ぶかと思ったら、とうとう呼ばなかったね、そしたら、変な時に、兄さんが、『ウオーッ』って怒鳴ったじゃないか。ははは、びっくりしたよ、僕ァ……」

「そうそう、聞いた、聞いた、その話は……」

 母のよね子が、玄関で靴の埃を払いながら、頓狂な声を立てた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月2日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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2014年5月 1日 (木)

第13話 未知の世界(四)

 そこで、彼は、更に言葉をついだ。

「が、私は、やや向う見ずなところがあり、殊に、妥協を好みません。自分に与えられた職権は、良心をもって断行いたします。専ら経済的見地から、商品の価値を定めます。この種の病院は神の住居でも悪魔の出店でもないと信じております。では、みなさんのご協力を切に望みます」

 言い終ると、彼は、風のように引きあげた。

 一つ時、騒然とした医局内は、外科部長田所博士の破れるような哄笑のあとで、再び鎮まり返った。

「どういうんだ、ありゃ……」

「けだし、珍なる人物じゃね」

「世は独裁者時代さ」

「神とか悪魔とか、皮肉のつもりかい?」

「年はあれでいくつかね?」

 つぎつぎにそんな言葉は湧きあがるだけである。

 部長の面々は額を集めて、なにやら囁き合っている。

 と、そこへ、めいめいの注文で弁当が運ばれて来た。

 日疋祐三は、事務長室で糸田と向い合って、二十五銭のライスカレーを食った。

「お部屋をひとつきめたいのですが、何処にいたしましょうかな。今、患者の待合室が一つ空けられると思うんですが、あとでごらん下さい。広くはありませんが、東向きで日当たりはよろしいようです」

「院長の部屋というのはないんですか……」

「それが、ご子息が洋行からお帰りになりましてから、その部屋をお使いになりますもんで……。三日に一度ぐらいは見えますですよ」

「へえ、来て何をするんです?」

「額を買って来て方々へお掛けさせになったり、病室へ花をお配らせになったり、この間は、庭へ噴水を作るとおっしゃって、技師をお連れになりました。それから、あ、さきほど看護婦の娯楽室をお目にかけませんでしたな、これは大したもんですよ。割引をして四百円という電気蓄音機を備えつけ、ピンポン台と本棚をご自分で注文なさるというご熱心さです。外国の流行雑誌は残らず揃っているそうで……」

「流行雑誌? 看護婦さんたちに?」

「いや、若奥様がおごらんになった後を、こちらへ寄贈していただきますから……」

 日疋は、近年まったく顔を合せたことのない、泰彦の坊っちゃん振りを想像することができた。そして、心の中で、これにも一度是非挨拶をしておかねばならぬと考えた。

 その日は、夜の十時頃まで居残り、寝静まった病院のなかを、あちこちと歩きまわった。

 寝間着の裾をはだけて廊下を往き来する軽症患者の姿は却って陰惨であった。時々、絶え入るような咳が聞こえたり、女の忍び泣く声が何処からか漏れて来ることがある。彼は、はっと耳をすます。

 風が出てうすら寒い街を、彼はやがて、懐しげに、ぶらぶらと歩くのである。

 家へ帰りつくと、兄嫁の眞砂子がまだ起きていた。

「みんなお先へやすみましたわ」

「どうぞ、どうぞ……」

 風呂を浴びたいが、銭湯へ出掛ける気にならず、彼は、流しで顔を洗って、寝床へもぐり込んだ。

 父が隣の部屋で眼をさましたらしい。

「遅いのう」

「明日お話しますよ、いろいろ……」

 こんどは母の声で、

「いまなん時やろ?」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月1日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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