第43話 歌はぬ歌(二)
日疋は、われ知らず妙なジレンマに陥っていることに気がついた。志摩一家の運命が、今や自分の手中にあるという確信に燃えれば燃えるほど、啓子という存在が最も貴重な、そして危いものに感じられて来た。であるからこそ、自分のためにも、彼女のためにも、悔いののこらない処置をとらねばならぬと思ひながら、信じればほろ苦く、疑えばかすかな甘さが胸を這うのである。
「さては、参ってるかな、おれも……」
笑おうとしても笑えないところをみると、これは冗談ごとではあるまい。
卓上電話のベルが鳴った。
「もし、もし、あ、奥さんですか? 僕、日疋です……」
志摩夫人は、早口に、看護婦はもうそちらを出たろうかと訊ね、主人の容体がどうも変だから、金谷博士に至急来て貰うようにしてくれと言い、ついでに笹島にもこのことを伝へて欲しいとつけたした。
「はあ、承知しました。看護婦は今すぐ差し向けます。で、意識ははっきりしておいでですか? 何処か苦痛を訴えられますか?」
彼は、問い返した。
「いいえ、相変らず自分ではどこがどうだとも言わないんですよ、ただ、いかにもだるさうなんですの。眼の色でそれがわかりますもの、あたしには……。それに、今朝また、少しもどしましたのよ。自分で看護婦を呼べっていうくらいですから……。あ、それからね啓子がまたお昼からそちらへ寄ると思いますけれど、今日は早く帰るようにおっしゃってちょうだい。では……」
なんという苦労を知らぬ声であらう。うっかりすると娘の啓子よりも若やいだ調子に聞こえるのは、ややもつれ気味の舌のせいであらうか。
彼は、起ちあがって、大股に部屋を出て行った。
事務室をのぞいて、糸田に看護婦の催促をし、更に医局の扉を押した。
金谷博士は、回診の最中だということで、彼は、二階へ駈けあがった。内科の病室がずらりと並んでいる。多勢の医者と看護婦とを幕僚のように引連れた、矮躯長髯の博士は、今一室から次の一室に移ろうとしているところであった。
「先生、ちょっと……」
日疋は、そう呼び止めて、急に此処で言うのはまずいなと思ったが、もう遅かった。
「院長の奥さんから、先生に是非、今日あちらへお立寄り願いたいというお言付ですが……。今朝から少しお元気がないというんで奥さん、心配しておられますから、……」
それをみなまで言わさず、金谷博士は大きくかぶりを振って、
「今更、僕でもあるまいじゃないか。そりゃ来いというなら行ってもいいぜ、手をつかねて帰るばかりだよ。容体はもうわかっとるんだからね」
「しかし、奥さんの気休めということもありますから……」
「ああ、そりゃそう……当人が脈を取らせさえすりゃね。参りましょう。田所君にも立会ってもらおうじゃないか」
その足で、日疋は、外科治療室へ飛び込んだ。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月31日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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