第42話 歌はぬ歌(一)
それから一週間もたたないうちのことであった。日疋は午前中に外の用事をすまして、昼近く病院へやって来ると、事務長の糸田が眼の色を変えて、
「さっき院長のお宅から電話がありましてな、看護婦を二名至急寄越せというご命令ですが、人選は婦長に委せてよろしいでしょうか?」
と、さも重大事が起こったという風に報告をした。
「さあ、そいつは僕にはわからん。金谷先生にでも相談してみたまえ」
「金谷先生では、ちょっと……。そいじゃ、まあ、こちらでよろしく取計らいましょう。しかし、院長が急におわるいんですかなあ。なんでも胃癌だという噂ですが。ほんとうでしょうか?」
「ねえ、君……」
帰って行こうとする糸田の背中へ、彼は鋭く呼びかけた。
「この病院のことは君が一番よくご存じの筈だが、笹島先生以外に院長のお嬢さんをねらってる若い医者はいなかったのかねえ。話を持ち込んで断られたというような話は聞きませんか?」
糸田は、この出しぬけの質問にちょっと間誤ついた様子であったが、ようよう、眼尻に皺を寄せ、
「さようですな、そんな話はどうも聞きませんでしたな。というのが、あんた、あの啓子さんという方は、ここ四五年、病気というもんをなすったことがありませんのでなあ」
「病気をしなくったって、君……」
「いや、ですから、つい、お嬢さんがあることだけを知って、お顔を見たこともないっていうのが大部分でしょう、殊に新しくはいった方は……」
「ふむ」
と、彼は考えて、
「今度、笹島先生との話がきまったのについて、部長の田所先生に仲人を頼んで断られたというのはどういう訳だろう?」
「ああ、そいつはね、田所先生っていう方は、そういうことがお嫌いなんですよ。偏屈と言っちゃわるいが、とっても世間ばなれのした方でね、まあ、ごらんになってわかる通り……」
「そりゃわかってるが、別に笹島先生に対してどうこうというんじゃあるまいね」
「笹島先生は、正直なところ、よく言う人とわるく言う人がありますな。わたしどもは立派な方だと思ってますよ。若いに似合わずよく気のつく方でね。看護婦なんか蔭でいろいろ言いますがね、みんな、それ、妬きっくらですよ」
「あ、今の看護婦のこと、早くせんといかんね。それから、今日は啓子さんのみえる日だったかね? ちょっと調べてくれたまえ」
日疋は、何か急きたてられるような思いで、じっと机の前に坐っているのがひと辛抱だった。泰英の容体については、もう既に直接、君だけにはと言って、ほんとのことを打ち明けられていたから、今更、それほど驚きはしなかったが、若しも、今日明日に万一のことがあったら、いろいろ面倒な問題が起りそうにも考えられた。
第一に志摩家の経済状態が明るみへさらけ出され、整理のプランを一部分変更しなければなるまいし、ことによると、病院の機構改革は、忽ち暗礁に乗りあげるものと覚悟しなければならぬ。
が、それと同時に、啓子の縁談は果たして、順調に進められるであろうか? もとより、その点は、相手、笹島の肚ひとつに違いないとは言え、その笹島が、博士なきあとの、言わば没落した志摩家の娘啓子をなんと見るかであった。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月30日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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