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2014年5月29日 (木)

第41話 宣告(九)

「いま笹島先生に会ったから冷かして来てあげたわ。だって、あの方、論文がパスするまでは奥さん貰はないっておっしゃってたのよ」

 女史はいきなり、彼の腰かけるべき椅子を占領してしまったので日疋は、逆にお客のような位置で畏まっていた。

「で、ご相談とおっしゃるのは?」

「え? 相談? なんの? あら、あたしそんなこと言ったかしら……?」

 急に想い出せないと、そんな風なとんちんかんな訊き返し方をする女がよくあるから、彼は黙って相手にならずにいると

「ああ、そうそう、こりゃ別のお話だけど、病院でベッドお入用ないかしら?」

「ベッド……? そりゃどういうんです?」

「新しいベッド五十ばかり……スプリングは和製だけど七年間保証をつけるんですって……。実はね、親戚のもので帝大の××内科に勤めてたのが、今年開業するっていうんで、郊外へ小さな病院を建てたのよ。そりゃいいけど、いよいよ引っ越しをしようっていう段になって、ぷいと気が変って地方の病院へ副院長で傭われて行っちまったんです。そこへ注文で作らせたベッドが出来あがって来たでしょう。建物はやっと買手がついていまアパートに模様替えの最中なんだけれど、みんな日本間にするんだからベッドはいらないっていうし、あとを頼まれたあたしが困ってるんですよ。なんとかしていただけない? そう言っちゃなんだけど、ここのベッドはあんまりひどすぎるわ。特等だけでも、新調なさるつもりで、それ使ってちょうだいよ。今あるのは、そのうちご増建になる施療の方へでもおまわしになればいわ。ねえ、そうなさいな。一台六十五円なんだけど二割ぐらい引いとくわよ」

「糸田君に話してごらんになりましたか……」

「いえ、まだ……。あのひと、ケチだから駄目。賄のわるいことじゃ評判ですよ、この病院は……」

「それが事務長の責任ですかねえ?」

「あたりまえじゃないの、材料費を無茶に節約するからだわ」

「しかし、調理の方は……」

「ええ、ええ、そりゃ、栄養食の方は、あれでも専門家よ。普通患者の献立と来たら、箸にもフォークにもかかりゃしないから……」

 日疋は、その洒落をキョトンとして聴いていた。

 と、その時、扉(ドア)を叩く音がした。精神病科の医局員で、橋爪といふ新進の博士であった。

「日疋君、いま忙しい? や、今日は奥さん……」

 と、両手をポケっトに突っ込んだまま、無造作に頭を下げた。

「いや、別に……。奥さんとの話はもうすんだ。まあ掛け給え」

「じゃ、ちょっと二人きりになりたいな」

 橋爪が独言のように言った。

「あら、お邪魔……どうも失礼……」

 女史は起ち上がって、二三歩扉(ドア)に近づき、そこで日疋を振りかえった。

「じゃ、ベッドのことはどうかお考えになって……。その代り、またあたしでお役に立つことがあったら、なんでもどうぞ……」

 それから、つかつかと日疋のそばへ寄って来て、急に声をおとし

「本郷のお邸お手ばなしになるんですって……? あたし、心当りがあるから、ちよっと話してみましょうか? 二十五万っていうとこね」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月29日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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