第40話 宣告(八)
日疋は、笹島という名を聞くと、やっぱりそうだったのかと思った。彼はそういう問題にまで立入る必要もなかったし、義務も感じないほどであったが、ただ、啓子という娘の運命がこれできまるのかと思うと、ちょっと侘びしい気がした。彼女が生涯の道づれとして選んだ男を、容赦なく批評の眼でみることも興味のあることだった。
しかし、それよりも、彼の心のなかに、啓子の美しさ、異性としての魅力がどれほどの作用を及ぼしているかという点で、この時ほどはっきりと自分の感情をみせつけられたことはない。それは眠っていた意識が呼びさまされたというかたちではあったが、彼は、どうしようもないこの「空虚なわだかまり」をもちあつかいかねて、一つ時、泰英の言葉が耳にはいらぬ状態であった。
彼は、鎌倉山から病院へ帰って来る途中、ふと、何時か動物園でみた鷲のことを想い出した。その鷲は檻の中で例の泊木の枝に止ってじっと前方を見つめていた。雀が一羽、檻の隅にからだをすくめて、金網の外から白い腹を波うたせているのがみえる。鷲はそんなものには眼もくれないという風であった。長い時間がたった。彼は息を殺してみていた。と、なにに驚いたのか、雀は、小さな羽ばたきをひとつすると、ぷいと金網をはなれて飛び立った。鷲の眼が光った。その瞬間、あたりの空気が、大きく揺れて、物々しい翼の影が檻いっぱいにひろがるとみると、もう雀のからだは、黄色い鷲の爪の間でぐったりとしていた。
彼は今、その光景を再び眼の前に描いて、思わず眉を寄せた。
病院は丁度昼休みの時間であった。
自分の部屋へはいる前に、ちょっと事務室をのぞくと、
「おや、さっきから、あなたをお待ちしてましたのよ。折入ったご相談があって……今、十分ほど、五分でもよろしいわ。お耳を拝借……」
そこにいた一人の中年の婦人が、寄り添うように声をかけた。
それは大串民代と称する此病院の言わば常連なのである。時には外来として、時には見舞客として、またどうかすると、別に用もないのに廊下や医局の前をぶらぶら歩きまわり、若い医者や看護婦をつかまえてお愛想をふりまいていることがある。見たところ服装もなかなか洒落ているし、話すことも常軌を逸してはいないから、みんなひと通りの敬意を払い、快く相手になるという具合であった。が、それにしても、どこか、何かが変わっていることは事実で、ちゃんと名前を呼ぶものはなく、蔭ではただ「女史」といふ綽名で通っていた。聞くところによると、この病院にはもう十幾年以来出入をし、入院だけでも七八度といふ記録保持者で、月に一度は少くとも自分で新しい病気を作って来るか、初診の患者を紹介してよこすのである。
日疋は何時の間にかこの「女史」と懇意な口を利くようになり、思いがけない時に、主事室の扉(ドア)を叩かれるようなことがあった。
「伺いましょう? 僕の部屋へいらっしゃいますか?」
彼は先に立って歩きだした。
「いよいよ結納のお取りかわしがあるんですってね。超スピードじゃないの」
啓子と笹島との噂を最初に何処からか聞き込んで来てそれを彼の耳に入れたのはこの大串夫人だったのである。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月28日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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