第38話 宣告(六)
と、笹島は、こんどは、キッと顔をあげ、彼女の視線を追うように、
「順序としては間違っていないつもりですが、今日、直接、あなたのお返事が伺えれば、それはそれで、一つの形式ですから……。僕は、どうも……なんと言いますか……こういう時の言葉を用意していませんが、要するに、あなたに笹島の姓を名乗っていただきたいんです」
そこまでひと息に言って、彼は、ぐいと唾をのんだ。
啓子は、真横ではあるが、全身を彼の前にさらしているだけに、顔の向け方に困ったが、それでも、相手の言葉を時々は眼で聴くだけの余裕をもっていた。
二人の視線が、一つ時、結びついて離れないような状態になった。啓子は、これはいかんと思いながら、咄嗟に、
「思召はありがとうございます。でも、あたくしこそ、こういう時になんて申しあげていか……第一、考えてみなくっちゃなりませんもの……」
と、ほんとに考えるように首をかしげて、やっと反対の方へ顔を反らした。
「お考えになる暇はいくらでもあると思います。それで、僕は希望を得たわけです。あとは、僕という人間をできるだけ正確につかんでいただければいいんです。あなたが僕に何を求められるかということは、追って詳しく伺うことにします。幸福とは愛するものに総てを与えることだと信じているからです。僕は一生涯食うだけのものは持っています。学問に仕えるといふ道は、ただ自分を精神的に富ませるという悦びのために選んだんです。人間として生きる上での僕のイデオロギイは、理想的な社会を目指す前に、理想的な、少くとも、充実した家庭生活というものの建設に生命を打ち込むことです。それは、勤勉な医師としての立場と矛盾はしないという確信が僕にはあるんです」
こんな熱情が彼のどこにあるのかと思われるほどであった。
しかし、啓子は、はじめて聴く異性の心の告白としては、妙に堅苦しいものをまず感じないではいられなかった。彼女がもし、夢のうちにある男性の求愛の言葉を想い描いたとしたら、もっと違った響きをもつものであったろう。それは、支離滅裂な表現でもかまわない。なにかそこには、理屈を飛び越えた、空気のようにふわりとした、肌で感じるよりほか感じようのないものが貫いている筈である。
彼女は、それを、笹島の科学者という特性に帰してしまいたくなかった。自分にも罪があるのだと、ふと、平生この相手に示していた素っ気なさを思い出していた。
で、急に、自分を励ますように、彼女は、おどけ顔をして言った。
「あたくしが指に怪我をしたことで、ある人がなんて言ったかご存じ?」
「知りません」
彼は続けざまに瞬きをした。
「脳に欠陥がありやしないかですって……」
「ノオ?」
と、彼は訊き返した。
「ええ、脳……ここ……頭のことですわ」
彼女は、左手の人差で軽く脳天をつっ突いてみせた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月26日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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