第37話 宣告(五)
笹島は隙をみて啓子に話しかけた。
「どうも長くかかって申わけありません。あれっぱっちの傷と思って安心してたんですが、お嬢さんの指は、よほどデリケートだとみえて、普通の経過をとらんですよ。そのくせ別に、今のところ悪性な徴候がないんですよ。自然になおるものがなおらんというだけの話で、医者はただ、天を恨むばかりです」
啓子は笑いながら答えた。
「厄介な患者をお引受けになって、さぞご迷惑だと思いますわ」
すると、彼は、慌てて、
「いや、いや、僕はただ、弁解をしてるだけです。これがもし、普通の患者だったら、わざわざ治療を長びかせてるんだなんてデマを飛ばされるところですよ」
これを聞いて、三喜枝は、容赦なく突っ込んだ。
「あら、啓子さんならどうしてそうじゃないっていう理由がたつんですの? もっとも、これは冗談だけど……」
笹島は赤くなった。が、すぐに、
「どんな嫌疑でも僕は甘んじて受けます。但し、僕の憐むべきプライドは、あの傷を手品のようになおしちまって、お嬢さんに、――どんなもんですっていう顔がしたかったんですからな。はははは、こいつはさんざんでした」
自嘲にしては屈託のない調子で彼は、わざと三喜枝の方へ頭を押えてみせた。
こういう雰囲気は啓子にとって決して居心地のいいものとは言えなかった。しかし、食事が終ってサロンへ引きあげてから、兄夫婦は、それぞれ用事にかこつけて席を外してしまい、笹島と二人きりぽつねんと取残された自分の気持に、彼女は、なにか底知れぬ好奇心のようなものがのぞいているのにハッとした。
笹島はスタンドの光を斜に浴び、僅のビールに酔ったせいであらうか、やや息苦しそうに肩で呼吸をしている。整いすぎた鼻の形から来る冷たさも、今夜はそれほどどぎつく感じられず、寧ろ、あの瞬間に明滅する瞳の輝きとともに、自分の才気をもてあます弱気な性格のシンボルのようにうけとれたのである。
少し黙っている時間が長すぎると、彼女はじりじりしはじめた時、笹島は、組み合わせた脚をほどくといっしょに、重々しく口を開いた。
「今夜、偶然、こういう機会を作っていただいて、僕は感謝しています。恐らく、あなたはまだ何もご存じないんじゃないかと思ひますが、実は、僕、親戚の者を通じて、お父さんまで不躾けなお願いをしておいたんです」
彼は、からだこそぐっと乗り出しているが、視線は伏せたままで、じっと後の言葉を探している様子であった。
もう、その先は聴かなくってもわかってもいるが、彼女は、不意をくった形で、胸が痛いほどの動悸を、無理に押し静めようとした。
その努力で、眉がひとりでに動く。彼女は、次第に自分の表情に気をとられていく自分を意識しはじめた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月25日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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