第36話 宣告(四)
笹島から人を介して、泰英に啓子を貰えないだらうかと申込んで来たのは、つい一週間ほど前のことであった。
泰英は、それを妻の瀧子に伝え、瀧子は、直接この話を娘の耳に入れることを躊躇した。ことによると、当人同士、もうある程度の了解がついているのかもしれず、そうだとすると、不意にこっちからそんなことを切り出して、娘をどぎまぎさせるのは罪だと思ったからである。
で、主人もあの男ならと言っていることだし、寧ろ、それとなく周囲から、二人の自由な接近を助けるように仕向けて行く方が、結婚の形式としても理想的だと判断したので、早速、泰彦夫婦に宛てて、瀧子は事細かに公の交際ができるような方法を取ってくれと頼んだことが、抑も、今夜の招待となって現れたのである。
啓子は、今朝兄嫁の三喜枝から夕食に一人お客をするから、あなたも是非接待役に出てくれという話で、うっかり承知をしてしまったのが、病院へ行って、はじめて、笹島の口から、それがばれてしまった。彼は何時になく玄関まで彼女を送って出て、「今夜、兄さんから御招待を受けて、お宅へ伺うことになっています。ゆっくりあなたともお話ができると思うと楽しみです」と、独りぎめにきめている様子なので、彼女はすっかり面喰らった。
こういうことに敏感なのは彼女に限ったわけではあるまい。なにかあるなと勘づくと、もう、彼女は、今夜の食事にはつきあいたくなかった。
というのが、笹島なる男を、平生、彼女は、主治医として以外、特別な興味でみていたことは事実だが、それは寧ろ、客観的に、一風変わった当節の青年として、その身嗜みや言葉使いや、いくぶん芝居がかりのポーズなどを面白く眺めていたにすぎず、これが評判の秀才と聞いてなるほどと思う節はあっても、およそ自分の好みとは縁のない人物のように感じられていたのである。しかし、何処と言って、別に反感をそそるようなところは殆どなかった。つまり、見かけよりは軽薄でなく、妙に澄ましていても、それはそれでひとつの愛嬌だという風に、彼女はみていた。指の傷をいつまでもなおしてくれないのは、腕が怪しいと言えば言えるが、その熱心さだけは買ってやらねばならぬ。
「別に深い意味はないのよ。まあ、あなたが診てもらってるお礼っていうようなつもりならいいでしょう。うちの病院のひとにどうするってわけにいかないから……」
兄嫁にとうとう丸め込まれ、啓子は、それならと言って、素直に我を折った。
笹島は、部長の手術に立ち合ったというので、少し時間より遅れてやって来た。
兄とはあまり親しい間柄ではないらしく、どちらも突っ込んだ話は避けているやうであった。笹島の方が五つ六つ年下でもあり、こちらは院長の息子という地位もありで、自然、ギコチない隔たりができるのを、三喜枝は巧にその間を取りもち、ひっきりなしに話題を提供した。こういう彼女の才能にかけては、まったく敵わぬといふ気がし、啓子は、そばで、ただ相槌をうつだけであった。
ところが、食事の最中、音楽の話がでて、俄然、笹島と兄との間に、活発な議論の応酬がはじまった。兄の近代音楽に関する知識は、笹島の足許にも及ばず、三喜枝の覚束ない助太刀は、いよいよ笹島の薀蓄に輝きを添えるばかりであった。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月24日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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