第35話 宣告(三)
「あたし、兄さまにちょっと伺いたいことがあるんだけど……」
啓子は、外から帰って来たままの服装で、ハンドバッグをきちんと小脇に抱え、まだ指に包帯をしていた。
「ああ、それより、啓ちゃん、あなた、鎌倉山から学校へ通うようになるですって……」
と、傍から三喜枝が口を出した。
「そう、どっちでもいわ、あたし……。ねえ、兄さま、あとでお暇ないこと? なんならお義姉さまでもいいの……」
更に、彼女は、そう言いながら二人の顔を見くらべ
「なんだい、訊きたいことって……。此処じゃ言えないのかい?」
「言えないわ」
軽くそう応えて、そっぽを向いた彼女の初々しい傍若無人さに、日疋は、思わず微笑を漏らし、
「僕はもうお暇しますよ。ついでだから、啓子さんに僕からお伝えしておきますが、今度この邸を引払っていただくことになりました。あなただけは鎌倉山の方へお移り願います。事情はもうおわかりになっているでしょう。これから先、どんな変動があなたのご一身上に起るかということは、今、僕の口から具体的には申上げられませんが、少なくとも、志摩家のお嬢さんで暢気に構えていらっしゃるわけには行くまいと思います。いよいよとなってはもう遅いんですから、今のうちに、ぽつぽつ用意をなすって下さい。じゃ、今日はこれで……」
日疋が出て行った後で、啓子は、いま彼の言った言葉をもう一度心のなかで繰り返してみた。兄夫婦は、黙って、それぞれの視線を宙に浮かしている。
「訊きたいことって、なんだい、啓子……?」
泰彦は、彼女の方に向き直った。
「随分変な人ね、日疋さんって……。いきなりあんなこと言うの失礼だわ」
啓子はなんでもないように言って、ふと気を取り直し、
「お二人ともどうなすったの。悄げてばかりいらしっちゃ駄目よ。あたしはもう平気だわ、どんなことになっても……」
兄嫁のそばへ行って腰をおろそうとした時、三喜枝はずけずけと言った。
「そりゃ、あなたは平気よ。どうせ、お嫁に行くひとなんだもの。そう、最近の候補者のなかに、素晴しいお金持ちはいない?」
それには応えず、啓子は兄に向って、更に問いかけた。
「今夜のお客さまってどなた? あててみましょうか? 笹島さんでしょう? ほら、隠してらしってもわかるわ。どうもおかしいと思った……」
すると、兄は、妻の三喜枝を顧み、
「君、喋ったね?」
「あら、喋りゃしないわ。ねえ、啓ちゃん。第六感でわかるんだわ、きっと……」
「笹島を食事に呼ぶのがどうして変だい?」
と、兄は、とぼけてみせた。
「笹島さんをお呼びになるのはちっとも変じゃないわ。じゃ、あたしは、今夜、失礼してよ。あしからず、お義姉さま……」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月23日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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