第34話 宣告(二)
本宅を処分する代りに小じんまりした洋風の住居を提供すること、自動車は一時に廃止せず、自分で運転するという条件で、小型の安いのと買いかえること、雇人は女中一人というのを二人にし、ほかにコックを残すこと、経常費三百円が五百円、夫婦の小遣が百円のところを二百円にすること、これで、とにかく話が纏った。
この譲歩は、日疋としては予め考えていたことで、これによって泰彦夫婦の気持を幾分でも謙譲にしようと企んだのである。
啓子は鎌倉山から学校へ通うことになった。
「まあ、それでやってみることにしよう。自信はさらさらないがね。ははははまるで手も足もでないよ」
「考えただけでもぞっとするわ。もう、外へ出ないこったわ」
夫婦は、気まずげに顔を見合せた。
「まったく僕としても、ご不自由はお察ししますが、また一方、それほど気を落されるようなことじゃないと思うんです。贅沢は習慣ですからな、結局……」
と日疋が慰めるように言った。
が、この時、なにを感じたか、泰彦がやにわに煙草の吸殻を床に叩きつけ、そいつを荒々しく踏みつけるといっしょに、叫んだ。
「そんな無茶な話はない。僕は不承知だ。断然、君の提議は拒絶する。今の約束は取消しだぜ。ああ、そんな、人を馬鹿にしたような相談は引っ込めてくれたまえ。今迄通りの生活ができないというんなら、僕は別に生きていなくってもいいんだ。いったい、君は、われわれをなんだと思ってるんだい。食うために生きてる人間と同一視してるのかい?」
日疋は、それを聞いて、かっとなったが、――待て待て、此処だと思いなおし、
「いや、同一視してはいません。ですから、ことをわけてお願いしてるんです。十年間辛抱して下されば、きっと現在の状態まで復活させてお目にかけます。僕にはそれ以外の野心はないんですから……」
そう言って、彼は、そこへひろげた書類をしまいはじめた。
「ねえ、あなた、日疋さんが折角ああおっしゃるんだから、できるかできないか、思い切って試してみましょうよ。あたしはもう決心ついたわ。その代り病気だって言って誰にも会わないから……」
三喜枝が、半分諦め顔で、例の投げやりな調子で言うのを、
「僕は一度おやじに会うよ。これでいいのかどうか、ちゃんと返事を聞いて来なけりゃ……。いったい全体、こんなになるまで僕になにひとつ相談しないっていうのは可笑しいじゃないか。三喜さん、君だって、そりゃ変に思うだろう?」
泰彦は、飽くまでも愚痴っぽく、妻への気をかねながら、左右へ当りちらした。
が、日疋は、切りがないとみて、最後に、
「では、僕はこれで失礼します。あ、それから、お住居のことですが、これは早速……」
と言いかけたところへ、啓子が、突然はいって来た。
三人はそれぞれ意外な面持で、この美しい闖入者の顔を見守った。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月22日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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