第33話 宣告(一)
債権者は、取引のある一二の銀行と泰英の乾分関係を除いて徐々に強硬な態度を示しはじめた。もはや、万事を日疋との交渉に俟たなければならぬと知り、彼らは、あらゆる手段に訴えて、急速な債務の履行を迫って来た。
もちろん、そのひとつを打ち棄てておいても、事態は容易ならぬ方向に転回して行くであらう。第一に、内情の表面化を恐れねばならぬ。信用のあるうちに片づけるというのが、この道の原則だからである。が、志摩博士の経済的信用なるものは、世間一般からはともかく、金融方面では、まったく地に墜ちていることがわかった。
日疋は、更に博士の英断を乞い、一挙に不動産の大部を手放して、根本的な整理、つまり生活の最大限度縮小を実行することにした。
先ず現在使用している鎌倉山の別荘を除いて、他の別荘、家作、農園、その他思惑で買ったそこ此処の土地全部の処理、本郷の邸宅は、これも適当な買ひ手がつき次第売り払うこと、年々きまって出している諸種の団体及び個人への寄附金の停止、自家用自動車二台の全廃、病院以外の傭人の大半解雇、等々から手をつけねばならぬ。
彼は、今朝から本宅の応接間に陣取り、泰彦夫婦に対して、事ここに至った経緯を詳しく話して聞かせ、さて、最後にこう結んだ。
「志摩一家の危急を救うために、また老先生の御心痛を軽くするために、もはや、これよりほかに方法はないと思います。病院も時機をみて、株式か財団組織にするつもりです。で、この方から、院長とあなたのとこには相当の俸給を差上げることにし、そうなれば、一段落、整理がつくわけです。現在の予算で、もう既にお馴れになったことと思いますが、今度は大分思いきった削減ですから、よほど覚悟をしていただかないと……」
それまで、うんともすんとも言わず、じっと彼の方をにらみつけていた泰彦と妻の三喜枝は、この時、同時に口を開いた。
「整理整理って君は言うけども、いったい、僕らの体面っていうもんはどうなるのかねえ」
「そう簡単に考えて下すっちや困るわ。もう少し目立たない方法がありゃしないこと? 誰か有力な人に相談してごらんになった?」
泰彦は、そこで急に起ち上って部屋の中を歩きだした。と、日疋は、そっちへは目もくれず三喜枝の今の言葉に応えて、
「有力な人っていいますと?」
「例へば財閥関係なんかでよ、お父さまのお名前で、少しぐらいの無理は聴いてくれそうな人が……」
「あると思っていました。僕も……。ところが、ないですね、実際は。一口、十五万という大金を信用で貸してくれている人物がいますがね。これが、先生を見損ったと言ってるんですから……」
「実家(さと)の父に話してみようかしら……」
「お話いたしました、もう……。子爵閣下は……苦笑なさいました」
三喜枝の父は、泰英に若干の恩借があることを、その時日疋に告白したのである。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月21日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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