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2014年5月20日 (火)

第32話 青葉若葉(十)

 石渡ぎんは、日疋の力を籠めて言う「わかったかい」に、はっきり、「ええ」と答えたかったのだが、唇がひとりでにふるえて、どうしても声が出ない。ただ、大きくうなずいたものであった。

 やがて、すしが運ばれ、二人は箸を取り上げたが、日疋は相手におかまいなく、瞬くうちに一皿を平げて、あとは悠々と彼女の食べっぷりを見物していた。

「随分お早いのね」

 彼女はやっと三つ目を食べ終ったとこだから、これにはあきれた。

「ああ、僕は、飯は早いよ。腹へ入れさえすればいいんだから……」

 じろじろ見られているのはいやだが、このひとの前で気取りは無用だと思うと、やっと箸の運びも活発になった。

「それで、どうだい、早速訊くがね、医者仲間の対立関係というか、まあ、各部のにらみ合いだな、それがあることは聞いてるんだが、君たちの気がついてることで、直接僕の参考になるようなことはないかね?」

 日疋は、切り出した。

「さあ、そういうことで、なにかあるってことはわかりますけど、例をあげるとなると……。でも、あたくしたちの眼には、先生がたで仲のいい方なんてないと思いますわ。うわべでは調子を合わせてらしっても、蔭ではきっとお互いに軽蔑してらっしゃるように見えますわ。現に、外科の方では部長先生以外の先生方は、レントゲンを取るのに、わざわざ患者さんをよその病院へおまわしになるんですもの。――うちのレントゲンは駄目です、なんて、公然とおっしゃってますわ」

「駄目なのかね、ほんとに……?」

 日疋は、意外な顔をした。

「あたくしたちにはよくわかりませんけど、やっぱり感情問題じゃないかと思いますわ。そばで伺ってて、いやあな気がいたしますもの」

「そりゃそうだらう。部長はそれでも、そこは心得ているんだね」

「ええ、部長先生は、とても、病院のためを考えてらっしゃいますわ。その点では、ほかの先生がたは随分無責任なんじゃないかと思うんですの。ぐっと若い先生がたは、こりゃ別ですけれど……。ご自分の研究が主ですし、俸給だっていくらもお取りにならないし……」

「おい、おい、そんなことまで君たちは知ってるのかい?」

「たいがい見当がつきますわ、そりゃ……」

「笹島君が院長のお嬢さんをねらってるっていうのは、ほんとかい……」

 突然そんなことを言いだした日疋の顔を、ぎんは不思議そうに見直した。

「誰からお聞きになりましたの?」

「誰でもいいよ。笹島君っていうのはどんな人だい? 君たちの受けはいいの?」

 そういう噂の出どころについて、ぎんはまったく見当がつかなかった。ただ啓子の指の傷を最初に診て簡単な手当をし、隔日の巻替にちょいちょい顔をみせて、二言三言口を利いている様子では、別にこれと言って変なところはない。

 笹島医学士は、看護婦仲間の鼻つまみであった。高慢でキザだという定評なのである。

 が、ぎんの頭のなかを、いま渦巻いているひとつの幻影は、この間自殺した堤ひで子と、彼笹島との、自分以外には誰も知らない関係であった。

 咄嗟に、ある激しい感情に襲われた彼女も、しかし、そのことだけはまだ日疋の耳に入れるのは早いと気がついた。

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月20日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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