第31話 青葉若葉(九)
横浜を通る頃には、ぎんはもうすっかり啓子のことは忘れていた。
それにしても、何時かのことがあって以来、はじめてこうして口を利くのに、日疋が、病院のことをちっとも言い出さないのはどういうわけであろう。あの時、いろんなことを訊かれたけれども、個人の問題に触れるようなことは、なんとしても返事をする気にならなかった。それが、今なら、どんなことでも、進んで答えられるのに――そう思うと、彼女は、少し寂しかった。
ところが、いよいよ新橋へ来ると、日疋は、いきなり起ちあがって、ぎんに言った。
「君に少し訊きたいことがあるんだが、差支えなかったら僕の家まで来てくれないか? そのへんで食事をしてもいんだけど、人の目がうるさいからね」
「ええ、よろしゅうございますわ」
彼女は、胸をおどらせながら、一緒に席を起った。
タクシイで何処をどう通ったか覚えてはいない。
降ろされたところは、暗い路地の中であった。が、表札に日疋とあったことだけはたしかである。
「ただ今……。お客さんを連れて来ましたよ」
彼のあとについて二階へあがった。
入れ違いに、女がひとり、階段を降りて行った。――奥さんかしら、と、振り返ってみたが、もうその姿は見えなかった。
彼女は、急に不安な気持になりあたりを眺めまわした。別に立派なというほどの座敷ではなかった。細かく気をつけると、寧ろさむざむとしたもの、間に合せの住いという感じが、建具や装飾品のどれにもみえた。
――主事さんなんて、そんなに月給をもらってないのかしら?
すぐにこんな考えが浮んだ。
「さあ、もっと真ん中へ座りたまえ。腹が空いたろう。いますしでも取るから」
そこへ、さっきの婦人が茶を運んで来た。紹介されて、それが彼の兄嫁だとわかると、また彼女はどぎまぎした。が、今度は、すぐに平静をとり戻し、隣の部屋で日疋が洋服を脱いでいるらしい物音に耳をすました。
和服に着替えて出て来た彼は、まるで別人のように若く見えた。すると、その調子まで書生っぽのような気軽さで、
「そんなに固くなるのよせよ。今日は友達として話すよ。君もそうしてくれ。もうだいぶん仲よしになったからな」
その言葉を言葉どおりに受けとることは容易であった。彼女はちょっと膝を崩す真似をし、片手を畳について、指で代る代る拍子をとっていた。
「僕はね、君を見込んで、今日は、ひとつ、重大な役目を仰せつけるよ。いいかい、よく聴きたまえ。これはむろん、誰にも秘密だ。二人の命にかけてその秘密は守らなくっちゃいかん。君は、今後、僕の腹心になって働いてもらいたいんだ。腹心って、なにかわかるかい? 心を許せる味方だ。という意味が、僕の仕事はだね、こりゃなかなかむずかしい仕事で、場合によっては誰彼を敵に回さなけりゃならんのだ。それが敵とわかれば、文句はない。一刀両断さ。しかし、そいつがうっかりするとわからんのだよ。今、あの病院は、君の言うとおり、乱脈さ。大手術が必要だ。一日遅れれば一日黴菌がはびこるという状態だ。むずかしいことは言わない。君はただ、君の接している範囲内でこいつは病院のためにならんと思う人間の名前を、そっと僕の耳に入れてくれればいいんだ。わかったかい?」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月19日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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