第30話 青葉若葉(八)
石渡ぎんは、ひとりで江の島の海岸をぶらつき、五時きっかりに大船駅へ戻って来た。なるほど景色はいいにはいいが、感嘆の叫びをあげるには連れのいないことが物足りなく、時々ハッとわれにかえると、こんなことをしていていいのかという風にわけもなく気がとがめた。
広くもない待合室のあちこちへ急いで眼を配ってみたが啓子らしい姿はみえない。
十分、十五分と、遠慮なく時間がたった。
時間がたつにつれて、啓子と自分との間に妙な隔たりが感じられた。
彼女は、無我夢中で切符を買い、丁度そこへ着いた上り列車へ飛び込んだ。
と、すぐ眼の前で夕刊を読んでいた男が、前の席へのせている足をおろして、
「なんだ、君か、まあ掛けたまえ」
帽子をかぶっているので、すぐにはわからなかったが、彼女は、それが日疋祐三だと気がついて、思わず、
「あらっ」
と、大きな声を出した。
「はははそんなに驚くことはないさ。今日は休み?」
「はあ」
やっとそう返事をしただけで、彼女は、もう顔をあげていられないほど真っ赤になった。
「そこ、空いてるんだよ。誰かと一緒なの?」
日疋は更に訊ねた。
「いえ。……」
口のなかで言って、彼女はそっと彼の前へ腰をおろした。
下手に羞んでいるように思われるのはいやだが、どうすることもできない。しかし、それも瞬間のことで、だんだん落ちつきを取りかえすと、彼女らしい機転で、まず顔をぐいとあげ、目立つほどの溜息といっしょに、自分で自分を可笑しがるように笑いだした。
日疋もつりこまれて、しぶしぶ相好をくずし、
「なにが可笑しいんだ? こっちに家でもあるの?」
と、急に、真顔になった彼女はそれこそ行儀のいい小学生のような物腰で、
「いえ。あたくしの家なんて、病院の寄宿舎以外にございませんわ」
「ふむ、そういうひともいるんだね」
彼は、感心したように首をふった。が、その、ぶしつけな視線を避けようともせず、彼女は、上目使いに、相手の表情からなにか打ち融けたものを読みとろうとしていた。
「先生はどちらへいらっしゃいましたの?」
やっと、それだけのことが言えるようになった。
「僕? いや、ちょっと清水のそばまで用事があってね。昼すぎに院長の別荘を出て、一時何分からの下りだ。忙しい旅行さ」
「まあ、ほんとに……あたくしたち、二時ちょっと前に大船へ着きましたの。入れ違いでしたわね」
「へえ、君も鎌倉山かい?」
「いえ、あたくしは江の島見物……院長先生のお嬢さまと途中までご一緒でしたわ」
「ふうん……啓子さんね」
その話はそれきりであった。
やがて、日疋は、農園から土産に貰って来たという苺の箱をあけ自分がまずひとつ口へほうり込みぎんにも薦めた。
「うまいだろう」
催促をされて、彼女は、ただ、眼を細くした。雄弁な味い方だと彼は思った。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月18日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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