第29話 青葉若葉(七)
玄関をあがると、女中頭のしまが、
「おや、お嬢さま、ちょうどよろしいところへ……旦那さまがついさきほどから急に……」
「えっ? おわるいの?」
と、啓子は、奥へ駆け込んだ。
父の泰英はなるほど寝台(ベッド)の上に横になっていたが、傍の母とあたり前に口を利き、啓子がはいって行くと、
「どうしたんだ。今日は来ない筈じゃなかったのか」
そう言いながら、眼じりに皺をよせて、思ったほどの容体でもないらしかった。
「いかが? しまやがおどかすもんだから、びっくりしたわ。お熱がおありになるの?」
啓子は、それでも、なるたけ静かに話しかけた。
「もうなんでもないよ。かうしてるとおさまるんだ」
「お昼前に日疋さんが来てね、お昼を一緒に召しあがったの。ついさっき、日疋さんが帰ると、すぐよ、ああ疲れたっておっしゃるから、あたしが寝台(ベッド)へお連れしようとしたら、その場で召しあがったものをもどしておしまいになったの。お苦しそうでね、あたし、どうしようかと思った。ご自分じゃ、それほどでもないっておっしゃるんだけど……」
母の瀧子は、応援が来たのでほっとしたらしく、ひとりでまくしたてた。
「もう、よろしい、そんな話はせんでも、……しばらく眠らしてくれ」
やがて鼾が聞こえだした。二人は次の部屋へ引きさがった。そこは父の書斎と客間とを兼ねた広い部屋で、テラスから庭へ降りられるようになっている。
「どういうんだろうね、一度ちゃんと誰かに診察しておもらいになるの、おいやかしら……あたしのみるところじゃ、ただの胃腸ぐらいじゃないと思うね」
「お母さまが気をつけてらしって詳しい容体を金谷さんかなんかに話してごらんになったら?」
「それは、言われなくってもしてるんですよ。あの先生も頼りない先生でね。からだをさわってみなければなんとも言えないっておっしゃるんだもの……」
「お父さまは、どうしてそんなに意地をお張りになるの。家族のものが心配するってことぐらいおわかりにならないかしら……」
「ふたこと目には、――わしは医者だぞ、しかも、わしより見たてのうまい医者がいると思うか、こうなんだから……」
「そこを、お母さまのお口で、なんとか説き伏せなくっちゃ駄目じゃないの」
「あら、そんなら、あんたやってごらんよ」
こんな風な話は、今にはじまったことではなく、おまけに、こいつは切りがないのである。
「とにかく、日疋さんが来なさるのはいいけど、お話がややこしいとみえて、いつもあとで大義そうなご様子なんだろう。あたしも気が気じゃなくってね。もう家の財産なんかどうなってもいいから、しばらくお父さまをそっとしといてあげたいよ」
滅入るように黙りこんでしまった母を、啓子はどう慰めていいかわからない。
二三度、父の様子を見に行き、庭へ降りて、芝生の一隅から水平線を眺め、ふと気がついた時は、もう時計の針が五時を過ぎていた。
「あ、しまったッ」
啓子は、ぎんとの約束をすっかり忘れていたのである。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月17日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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