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2014年5月16日 (金)

第28話 青葉若葉(六)

 スパイという言葉に、啓子は、ちょっと眼をみはったが、石渡ぎんは、急に調子をかえて、

「きれいね、お庭が……。鎌倉の方へは時々いらっしゃるの?」

 と言った。

「ええ、土曜から日曜へかけて大概行くわ。昨日は、でも、先生のお宅で集まりがあって夜おそくなっちゃったもんで……。丁度よかったわ」

「あちらではお待ちになってらっしるんでしょう?」

「ううん、電話かけといたから、大丈夫。それに、近頃は、臨時にちょいちょい顔を出すから……」

「院長先生のご病気はどんな風かしら?」

 誰言うとなく、病院では、院長先生は胃癌だという評判がたっていたが、石渡ぎんはそれをたしかめる勇気はどうしてもなかった。

「わりに元気よ。ずっと寝ていられないくらいですもの。ただ、目に見えてよくならないのが、じれったいわ。自分がお医者だと、からだより病気の方を大事がるみたいなところがあって……」

 啓子は、ほんとにそう思っていた。が、それを洒落ととって、ぎんは、にらむ真似をした。

やがて昼になった。帰るというのを無理に引止めて一緒に食事をした。

 それから、二階のホールでレコードをかけて聴かせ、読みたいという本を出して来てやり、バルコニイへ椅子を並べて、めいめいに読みはじめた。

 石渡ぎんは、しかし落ちつかぬ様子であった。

 場所に馴れないせいもあろう。が、それよりも、彼女の心がもうここにないのである。

「志摩さん、どっかへ行かない? 少し歩いてみない?」

 一時間もたたないうちに、彼女は、書物をテーブルの上へ伏せた。

「そうしてもいわ。どこ、行くとすれば……? 銀座?」

「どこだっていのよ。できるだけ遠くへ行ってみたいわ。今夜帰れさえすれば……」

 啓子は、この提議に応じて勢いよく起ち上がった。

「ちょっと待ってね、支度して来るから……」

 二人は東京駅から横須賀行へ乗った。三等車は相当込んでいたけれども、二人の席は楽にとれた。

「胸がどきどきするわ、こうして、旅行するんだと思うと……」

 ぎんは子供のように眼を輝かし、かわるがわる左右の窓を見た。

「あら、これが旅行? 大船までじゃ可哀さうね」

「そんなことないわ。大船なんてあたしたちには思いつかないわ。帰りに時間をきめといて、駅でお会いすればいいわね」

「どうしても寄らないっておっしゃるなら、それでもいいわ。あたしは、ちょっと家をのぞいて来ればいんだから……」

「でも、折角……」

「いいのよ、いいのよ……。明日学校があるから晩はどうせ泊まれないんだし、帰りは銀座でランチでもたべましょう」

 それで、大船へ着くと、五時まで自由行動をとることにし、啓子は、途中でバスを降りた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月16日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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