第27話 青葉若葉(五)
日疋にお説教をされたことが、まんざらでもないようなところを、石渡ぎんは、そのうっとりとした眼つきにみせて、啓子を唖然とさせた。
「で、あたしに相談って、どんなこと?」
啓子は、チヨコレートの銀紙をむきながら浮き浮きと訊ねた。
「ご相談っていうと大袈裟だけど、いつか病院のことでいろいろお話したいことがあるって言ったわね。なんかのついでに、院長先生のお耳に入れておいていただこうと思ってなの。それが、ほら、今度、主事さんって方が病院のことを一切お引受けになったんでしょう。だから、うるさい問題をご病気の院長先生にいちいちお聞かせすることはないと思うわ」
「ああ、そう……じゃ、あなたから直接、主事の日疋さんにおっしゃって下さるってわけね」
「ううん、ところが、あたしの口からは、そんなこと言えないのよ」
「あら、どうして……? さっき、なんでも平気で言えるっておっしゃったじゃないの」
「そりゃ、言おうと思えば言えるわ。だけど、事柄が事柄でしょう、変に取られるといやだから……。まるでお世辞つかってるみたいで……」
「病院のためになることなんでしょう。堂々とおっしゃればいいじゃないの」
「ええ、人の名前を出さなくってもよけりゃね……。どうせ、そこまで喋らないと気がすまないんですもの。あたしの身分ってことを考えると、少し、出しゃ張りすぎるように思って……」
「そうかしら……。なんなら、兄とお会わせしてもいいわ。兄の知らないことだってあるんでしょうから……」
「駄目よ、そりゃ……。若先生はあたしたち看護婦のためにいろんなことして下さるんだけど、妙にピントが外れてるのよ。おまけに……。あ、よそう、早速悪口になっちゃった……」
「なによ、ちゃんとおっしゃいよ。あたしが聞いて悪いこと?」
「あんまりよくもないな。言っちまおうかしら……。これだけは絶対秘密よ、実は、こういう噂があるのよ、若先生と皮膚科の都留先生との間に黙契があって、あの病院を都留先生一派で乗り取ろうとしてるんだって……。今、内科が振はないでしょう。だもんだから、誰か顧問に大家を一人連れて来ようっていうことになったらしい。院長先生はそれに反対なすってらっしゃるんですってね。ところが、都留先生には意中の人物が一人あるのよ。誰だとお思いになる? 遠山博士……ご存じでしょう? 都留先生の伯父さんに当る方……。大きな看板だわ、こりゃ……」
こういう事情に通じていることは、いくぶん彼女らの誇りででもあるように、石渡ぎんは、そのくびれた頤をつきだして、いっとき相手の返事を待った。
「あたしにはそういうことさっぱりわからないけど……それがどんな結果になるっていうの?」
この頼りない反応に、ぎんはちょっと焦れるようなかたちで
「ごめんなさい。あなたにこんなことお聞かせしてもしょうがないわ。どら、思いきって、あたし、スパイになろうかな……」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月15日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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