第20話 未知の世界(十一)
日疋は、彼女の視線をまともに受けて、一歩後へさがると、黙って頭をさげた。
「あら、ごめん遊ばせ……兄さまお一人かと思って……」
啓子は、ためらうように会釈をして、更に兄の方に向い、
「まだ包帯とっちゃいけないんですって……。こんなに長くかかるなんて変だわ。笹島さんんってば、針に黴菌がついてたのかも知れないっておっしゃるのよ。なんだか、心配になって来たわ」
「知らんよ、僕は、そんなことは……。指一本ぐらいどうなったっていいじゃないか」
泰彦は、妹をからかうように言った。
「どうなすったんです、ケイ子さん……」
と、日疋は、やっとこの時、五六年前に見た彼女の面影を頭に浮かべ、耳で聞いただけではあるが、その名前がふと口に出た。
「は? いえ、ちょっとミシンの針を刺しただけなんですの。ぼんやりでしょう」
啓子は、別に相手が誰だということを気にもとめぬらしく、極めてあっさりそう答えて、眼元で笑った。愛嬌といふよりも寧ろ嗜みという感じの表情で、彼は二の句がつげず、肚の中で「畜生――」と唸った。
が、彼女の方は、兄がこの男を改めて紹介するだろうと、いっ時立ち去るのを躊躇していたが、その様子もみえないので、
「じゃ、六時きっかりね、迎いに来て下さるわね、遅れちゃいやあよ」
だんだんにからだを引きながら念を押すように言って、最後に、日疋の方へ、
「お邪魔いたしました」
と、今度は前よりも他所よそしくヴェールの下でぱっと見開かれた眼がただ朝空のように爽やかな印象を与えただけであった。
「いずれ、詳しいご相談はお宅へ伺ってすることにします。それはそうと、病院っていうもんは、なかなか厄介なもんですね。こいつが商売になるところに、不思議なからくりがあるんだと思うが、僕は、志摩家の名誉のために、そのからくりを合理化してみようと思うんです。まず人事の問題から始めなければなりません。黙って見てて下さい」
そう言い捨てて、彼が部屋を出ると、事務長の糸田が婦長の橋本と一緒に、慌ただしく駆け寄って来て彼を呼び止め、
「日疋さん、どうしたもんでしょう、看護婦の一部から穏かならんことを申出ているんですが……」
と、糸田がまず口を切った。
「さきほどちょっと申上げました、あの件について、早速本人を読んで説諭いたしたところ、いろいろ理屈を並べて反抗して来るんでございます。あたくし、これじゃ見込がないと思いまして、そんなら病院をやめたらどうかと申しましたんです」
婦長は唇をふるわせながら言った。
「すると?」
糸田が、こうしてはいられないというように先を促す。
「すると、そのまま出て行ったと思うと、しばらくして、ほかのもの十人ばかりを連れて、事務長さんのところへ押しかけたらしゅうございます」
「ええ、押しかけて来ましてね、てんでに病院の悪口、それも看護婦なんかに関係のないような、いやまあ、生意気千万なことを喚き立てる始末です」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月8日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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