第19話 未知の世界(十)
泰彦はソファーに埋まり、腕組みをしていた。強いて冷静を装おうとする風がみえる。が、そういう内心の争闘に馴れない証拠には、顔面の筋肉が硬直して、薄い口髭がギコチなくふるえていた。
「院長からは全然そういうお話はなかったんですか」
と、日疋は、いくぶん親しみを籠めて言った。
「いや、全然聞かないわけじゃなかった。しかし、君のいうように、今すぐどうなるという風には聞いていない。僕にだって用意があるからねえ。程度如何によっては、現在の生活を根本から変えてかからなけりゃならんのだから……」
「それを僕からも言いたいんです。まだ全体のことがよく頭にはいっていませんから、どこをどうするという案は細かく立ってはいません。しかし、この病院の経済だけは、健全なものにしておく必要があります。会計を調べたところによると、用途不明の金が直接お手許に行っているようですが……」
「用途不明ということはないさ。いちいちおやじの許しを得てるんだから……」
「院長のですか、それなら結構です。ところで、今後は、院長ではなく、僕の承認を得てということにしていただきたいんです。いずれ、経費の点は鎌倉の方と、ご本宅の方と、別々に予算を組んでそれぞれご相談をすることにします。大体の見当では、これまでの約十分の一に切りつめていただくつもりです」
「十分の一というと……?」
「年額、両方を合わせて一万五千円以下……」
「僕の小遣にも足らんね、それじゃ……」
「そんなことを言ってる場合じゃありませんから……」
「へえ、そういう計算がどこから出て来るのか、僕にはわからないんだ。それじゃ、まるで乞食の生活じゃないか」
「乞食の生活がどんなもんか、あなたはご存じですか?」
思わず蔑むような調子になるのを、日疋は、じっとおさえて、
「おわかりにならなければ、いくらでも説明します。とにかく数字をごらん下さい。今のままでは、ここ一年、いや、半年を過ぎないうちに、志摩家は破産の宣告を受けるでしょう」
破産という言葉で、泰彦は、にやりと笑った。糞度胸をきめたのかと言えば、決してそうではなく、相手のおどしを軽くあしらうつもりであった。
「君はたいへん志摩家のことを考えていて下さるようだが、僕と君とは、なるほど、二三度以前に会ったことがあるだけで話もろくにしていないし、いきなり、今、僕の眼の前で、そういう口の利き方をされても、どこまで信用していいのか、こりゃちょっと迷うからね。そりゃ、おやじが馬鹿に惚れ込んでるという話は聞いた。だからって、僕が君の言うなりになるとは限らんからね。そう、高飛車に出る手は、近頃流行らないよ」
この啖呵は、日疋の眼には、他愛ない少年の拗ね方に似ていた。
「はははは別に高飛車に出るつもりもなかったんですが、言葉がつい荒くなったことは僕も認めます、喧嘩はよしましょう。とにかく、僕は、志摩家のために、献身的に働くつもりですから、どうか働きいいようにして下さい。それに……」
と彼が言ひかけた時、ノックといっしょに扉(ドア)があいて、
「じゃ、お兄さま、あたし、お先へ失礼してよ」
半身をのぞかせながら声をかけたのは、かすかに見覚えのある若い女であった。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月7日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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