第18話 未知の世界(九)
突然、荒々しく扉(ドア)を叩くものがある。
日疋祐三は、それと察して、席を起った。
見かけは瀟洒たる青年紳士で、以下にも洋行帰りのドクトルという押し出しもあり、いくぶん神経質らしい額を除いては、健康と贅沢に満ちた風貌の持主が、手を後ろを組んだまま、のっそりはいって来た。
「やあ、しばらく……。僕、泰彦です。こんどは病院のことで、お骨折りを願うそうで……」
挨拶は挨拶だが、明かに敵意を含んだ語調である。
「これはどうもわざわざ……。一度お宅の方へ伺うつもりでいましたが、つい馴れない仕事に追いまくられて、失礼しています。今度院長から病院の管理を仰せつかりました。全責任を負えという命令です。及ばずながら、努力してみるつもりです」
泰彦は、部屋の中をぶらぶら歩きまわっている。
「父からどういう風にお願いしたか知らんが、この病院は、われわれ志摩一家のものが、うちの病院と呼んでいる通り、これは決して他人のあなたが自由になるような性質のもんじゃない。僕は志摩家の相続者として、かつ、医者たることの義務上、この病院の管理について、若干の意見をもっている。それをあなたに承知しておいてもらいたいと思うんだ」
あなたがあアたと聞こえる例の貴族的な発音が耳ざわりであった。
「もちろん、ご意見は参考のために承ります。あなたがそれほどこの病院の仕事に関心をおもちになっていることがわかれば、僕としても非常に気丈夫です。率直に言いますが院長はあなたを当てにしてはおられません。恐らく、真意が通じていないものと思われます。僕は単に、この病院の管理を委されただけではないんです。志摩家の財産全般――この点は、まだご承知ないかも知れませんが――志摩家の財政は文字通り危機に瀕している、それをなんとか切り抜ける方法について、僕は今研究中なんです。いずれ具体案を得次第、整理に着手します。ついでにお含みおき下さい」
これを聞きながら、泰彦は、そっと立ちどまった。と、急に、日疋の方へ歩み寄り、
「君、そりゃ、ほんとですか? だって、そういう話はおやじから一度も聞いたことはない。誰からも聞いたことはない。自分の家の財政が苦しいなんていうことは、一番に僕が感づくわけなんだ。おやじは、僕が請求するだけの金を毎月寄越してるんだぜ」
「そうでしょう。だから来月から、僕が出さないようにしますよ」
そう言い終るのを待たず、泰彦は顔色を変えて部屋を飛び出した。
その狼狽ぶりは、誠にみじめであったが、少し薬が利きすぎて、何を何処で喋らぬとも限らぬ様子がみえたので、日疋祐三は、ひとまず彼を落ちつかせる必要を感じ、その後からついて行った。
院長室のなかへ姿を消した泰彦を、再びつかまえることは容易であった。
「どうしました? そんなに驚くことはないじゃありませんか。もっと順序を立てて、詳しくお話すればよかったんだが、あなたの鼻息があんまり荒いもんだから、対抗上、僕も咄嗟に、自分の立場を守っただけです。病院は病院として、志摩家の財政問題は、将来、あなたにも考えていただいて、ひとつ、無理のないようにしましょう」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月6日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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