第14話 未知の世界(五)
翌朝、父の俊六は彼に訊ねた。
「どうだい、病院というやつは? 見込みがあるかい?」
「なかなか面白いもんですよ。腹を据えなくっちゃ駄目ですね。相手は病人かと思ったら、実は、医者ですよ。こいつ、首っ玉を押えてかからないと仕事になりませんよ」
祐三はずばりと言った。
「しかし、お医者は、普通のサラリマンを扱うようには行くまい?」
兄の計太郎は、この時、重い口を開いた。
「どうしてですか? おんなじでしょう。つまり、職業として徹底しない一面をもってるだけですよ。当人たちはそこが強味だと思い込んでる。ところが、こっちに言わせると、そこがつけ目ですよ。会社にいる技師なんかも共通なところをもってますが、子供みたいな自負心が、結局、先生たちを商売人と太刀打ちのできない人間にしてますよ」
そういう彼を、驚いたという風に見直して、
「おい、おい、君はそれでいっぱし商売人のつもりかい? 台湾製薬の専務っていう将来の椅子を恩義のために棒に振る男が、いったい、算盤を言々する資格があるかねえ」
「はは、そりゃまた別ですよ。明日から食えなくなることがわかっていながら、上役の皮肉ぐらいに癇癪を起して、インキ壺を投げつける豪傑もいるんだからなあ。兄さん、もう役所勤めは諦めて、商売の方へ転向しませんか? 僕がやめたあとならいでしょう、台湾製薬でも……?」
「いやだよ。病院の事務員なんか、なおさらごめんだ」
「誰も、そんなこと言ってやしないじゃありませんか」
「いや、そりゃ、わしが言ったんじゃ、病院の事務の方に何か口がありゃせんかって……」
父が独り言のように答えた。
「祐さん、誰がなんて言ったって駄目なのよ、この人は……。やっぱり内務省が好きなのよ。世界で一番立派なお役所だと思ってるんですもの」
兄嫁の眞砂子は、夫の胸の底を容赦なく暴いて、淋しく微笑んだ。
「そりゃ、地方行政というもんは、言うに言われん面白味のあるもんじゃ」
嘗ての県書記官は、憮然として呟いた。
やがて、祐三は、席を起って洋服に着かえた。兄嫁は甲斐甲斐しくそれを手伝った。
「いいですよ、義姉さん、ほっといて下さいよ。だが、悪くはないな、そばからこうしてつぎつぎに取ってもらうのは……。これだって、上手下手はあるでしょう、どこの細君も義姉さんなみというわけにゃいかんでしょう?」
「あら、あたしそんなに上手かしら……? 兄さんには、毎朝一度ずつ怒鳴られるわ」
「兄貴の怒鳴るのは癖ですよ。ねえ、兄さん、覚えてる? 小学校を卒業する時だったかなあ、ほら、式があってさ、担任の先生が優等の名前を呼んだでしょう。兄さんの名前を呼ぶかと思ったら、とうとう呼ばなかったね、そしたら、変な時に、兄さんが、『ウオーッ』って怒鳴ったじゃないか。ははは、びっくりしたよ、僕ァ……」
「そうそう、聞いた、聞いた、その話は……」
母のよね子が、玄関で靴の埃を払いながら、頓狂な声を立てた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月2日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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