第13話 未知の世界(四)
そこで、彼は、更に言葉をついだ。
「が、私は、やや向う見ずなところがあり、殊に、妥協を好みません。自分に与えられた職権は、良心をもって断行いたします。専ら経済的見地から、商品の価値を定めます。この種の病院は神の住居でも悪魔の出店でもないと信じております。では、みなさんのご協力を切に望みます」
言い終ると、彼は、風のように引きあげた。
一つ時、騒然とした医局内は、外科部長田所博士の破れるような哄笑のあとで、再び鎮まり返った。
「どういうんだ、ありゃ……」
「けだし、珍なる人物じゃね」
「世は独裁者時代さ」
「神とか悪魔とか、皮肉のつもりかい?」
「年はあれでいくつかね?」
つぎつぎにそんな言葉は湧きあがるだけである。
部長の面々は額を集めて、なにやら囁き合っている。
と、そこへ、めいめいの注文で弁当が運ばれて来た。
日疋祐三は、事務長室で糸田と向い合って、二十五銭のライスカレーを食った。
「お部屋をひとつきめたいのですが、何処にいたしましょうかな。今、患者の待合室が一つ空けられると思うんですが、あとでごらん下さい。広くはありませんが、東向きで日当たりはよろしいようです」
「院長の部屋というのはないんですか……」
「それが、ご子息が洋行からお帰りになりましてから、その部屋をお使いになりますもんで……。三日に一度ぐらいは見えますですよ」
「へえ、来て何をするんです?」
「額を買って来て方々へお掛けさせになったり、病室へ花をお配らせになったり、この間は、庭へ噴水を作るとおっしゃって、技師をお連れになりました。それから、あ、さきほど看護婦の娯楽室をお目にかけませんでしたな、これは大したもんですよ。割引をして四百円という電気蓄音機を備えつけ、ピンポン台と本棚をご自分で注文なさるというご熱心さです。外国の流行雑誌は残らず揃っているそうで……」
「流行雑誌? 看護婦さんたちに?」
「いや、若奥様がおごらんになった後を、こちらへ寄贈していただきますから……」
日疋は、近年まったく顔を合せたことのない、泰彦の坊っちゃん振りを想像することができた。そして、心の中で、これにも一度是非挨拶をしておかねばならぬと考えた。
その日は、夜の十時頃まで居残り、寝静まった病院のなかを、あちこちと歩きまわった。
寝間着の裾をはだけて廊下を往き来する軽症患者の姿は却って陰惨であった。時々、絶え入るような咳が聞こえたり、女の忍び泣く声が何処からか漏れて来ることがある。彼は、はっと耳をすます。
風が出てうすら寒い街を、彼はやがて、懐しげに、ぶらぶらと歩くのである。
家へ帰りつくと、兄嫁の眞砂子がまだ起きていた。
「みんなお先へやすみましたわ」
「どうぞ、どうぞ……」
風呂を浴びたいが、銭湯へ出掛ける気にならず、彼は、流しで顔を洗って、寝床へもぐり込んだ。
父が隣の部屋で眼をさましたらしい。
「遅いのう」
「明日お話しますよ、いろいろ……」
こんどは母の声で、
「いまなん時やろ?」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月1日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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