第12話 未知の世界(三)
日疋祐三は、いま、その時の志摩博士の顔つきを想い出している。老科学者風の冷厳さは消えて、なにか気魄の衰えのようなもの、自ら膝を屈する脆さをありありと示していた。
彼は、即答を与えず、ひと晩、考えぬいた。翌朝、晴ればれと決心の臍をきめ、これまで築きあげた地位を惜しげもなく捨てたのである。
恩義に報いるという気持が全然ないではないが、それよりも、所謂、男子意気に感ずというところの方が強かった。しかし、博士の言った通り、仕事の面白味は、なんとしても、大会社の庶務課長より、小さくとも独立した事業を一人で切り回すことにあると思ったのが、むしろ第一に彼の決心を早めさせた原因なのである。
「では、医局の方はみなさんお揃いになったそうですから……」
糸田事務長の知らせで、彼は起ち上った。
思ったより広い部屋であった。両側にデスクが並んでいた。
彼がはいって行くと、各部長がひと塊になって彼を迎え、中でも、内科部長の金谷博士は、いかにも旧知のような打ち解けた調子で、
「どうもご苦労さま……。大体様子がおわかりになりましたか? では、医局員にご紹介いたしましょう。諸君、ちょっと起ってくれたまえ。」
ぞろぞろと椅子を離れて、いろいろの顔がこっちを向く、なかには明かに無関心を装う顔がみえる。
「じゃ、僕から簡単に……」
そう言って、金谷博士は日疋の方を顧み、
「かねてお聞き及びのことと思うが、今度、院長の特別なお眼鏡で、ここにおられる日疋祐三とおっしゃる方は、この病院の主事としてご勤務下さることになりました。先刻ご承知のとおり、院長は久しく健康が勝れられないために、別荘で静養をつづけておられるのだが、これは、病院の信用上、かつ統制上、甚だ憂慮すべき状態と言わんけりゃならんのであって、われわれとしても、内外の事情に照らし、この欠陥を補うために、あらゆる処置を講ずる必要を感じている次第なんであるが、幸い、内部的に、院長事務代理とも言うべき地位と人物とを得たことは、今後、組織の運転を一層円滑ならしめるものとして、大いに期待をもつところであります。」
ここで、突然調子を張り、
「もちろん専門の領域において技術家たるわれわれの職分は何等これによって影響を受けるものではない。さきほど、院長代理というような言葉を使いましたが、これは、内科臨床医学の大先輩志摩博士に代るものという意味では毛頭なく、単に、志摩病院の院主、即ち一個の経営者たる志摩泰英を代表するに過ぎないのだということを、諸君は銘記されたい。その意味に於いて、われわれは、日疋君に全幅の信頼と同情を惜しまないものであります。」
拍手をするものが二三人あった。
日疋祐三は、この瞬間に、医局内の空気なるものを直感した。
彼はややあって、おもむろに口を開いた。
「只今の金谷博士のご紹介のお言葉は、その過分のご期待を除いては、私の言わんとするところを尽くしていると思います。ごらんの通り、私は、一介の書生で、まだ大した事業の経験もなく、人心の機微にも甚だ疎いのであります。殊に、医学なるものの片鱗をも弁えず、病院というものの門を潜った記憶もない次第で、言わば、今日突然、見知らぬ世界に迷い込んだわけです。果たして、私のような人間の通れる道があるかどうか、諸先生の好意あるお手引きに頼る外、一歩を踏み出すことさえ困難なのを感じます。」
彼は部屋の隅々を、じっと眺めまわした。咳払いひとつ聞こえない。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月30日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
詳細はこちら
最近のコメント