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  • 坂本葵 | Aoi SAKAMOTO

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2014年4月27日 (日)

第9話 志摩家の人々(九)

 夕食の支度ができ、瀧子は時計と睨めっくらをしている。

 六時になり、七時になっても、泰彦夫婦はやって来ない。

 啓子は腹をぺこぺこに空かして、紅茶ばかりがぶがぶ飲んでいる。

 父の泰英は、とうとう居眠りをしはじめた。

 七時半まで待つことになった。

 と、やがて、表で自動車が止る音がし、瀧子と啓子が玄関へ飛びだすと、車が違っている。おやと思う間もなく、降りて来たのは、兄嫁の三喜枝一人であった。

「どうもすみません。遅くなっちゃって……。ホテルを出ようとした時、ウィーン時代のお友達にひょっくり会ったもんだから……。泰彦さんは、明日の午後までいるつもりなんですの。それじゃこちらに悪いからって、あたし一人で伺ったんですのよ。ごめんなさいね。大船から変な暗い道へ迷い込んじゃって……ああ、心配した」

 首に巻いた黄のスカーフを大袈裟な手つきでほどくと、もう靴を脱いで上へあがっていた。

 痩せぎすの、どこか病的な鋭さと子供のような単純さとを同時にもった、全体の容姿挙動がなんとなく尋常でないところのある女である。

「そんなことなら、わざわざあなた一人で来なくっても、電話をかけてくれなさりゃよかったのに……」

 瀧子は、そう言いながら奥へ引っ込んだ。

「啓子さん、あんた、何時から来てんの、ひどいわ、黙って……」

 三喜枝は啓子の肩へおぶさるようなしぐさで、ぐんぐん後ろから押して行った。

 泰英は申訳のように食卓についた。

 八畳の茶の間である。

 啓子は父と向いあい、三喜枝は瀧子と向い合っていた。

「二人ともそんなに黙ってないで、お父さまになんかお話をしてあげて頂戴よ。退屈してらっしゃるんだから……」

「ちょっと待って……いま大急ぎでこれだけ食べちまうから……」

 啓子は伊勢海老の肉を剥がすのに夢中である。

「わしは、ちっとも退屈なんかしとりゃせんよ。それより、今日は好い機会だから、みんなに言っとくが……志摩一家もこれまではまず順調な道を歩いて来た。しかし明日はどうなるかわからんよ。わしのからだも何時までという保証はできんし、財産もいろんな事情で一切人手に渡るようなことがあるかもしれん。もちろん、わしの生きている間は、みんなが食ふに困るような状態にはせんつもりだが、少くとも、すべての点で、贅沢は禁止だ。今からその覚悟をしてもらわにゃならん。泰彦には、三喜さんからよく話しといてくれ。具体的なことは追ってきめるから、文句の出んようにしてほしい」

 女三人は、呼吸を殺して、聴いていた。

 瀧子が先ず口を開いた。

「病院の方が思わしくないんですの?」

「それもある。が、それだけじゃない。病院は、わしが出て行きさえすりゃいいんだが……」

 啓子は、その言葉を自分だけに通じる言葉として、ひそかに同感した。看護婦の石渡ぎんが自分に言ったことは、やはり事実だったのだ。

 縁の硝子戸を透して、遠くの海がキラキラ光っていた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月27日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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