第8話 志摩家の人々(八)
啓子が母の瀧子になにか目くばせをした。――いいのよ、お父さまに喋らしておおきなさいよ。といふ眼つきであった。
瀧子も心得顔に笑いを噛み殺している。
「じゃ、啓子、お母さんの前ではっきり返事をしなさい。これと思う人物があったら、明日にでもお嫁に行くって……」
「…………」
啓子は、探るような眼つきで、じっと父の顔を見つめている。
「どうだ、おい……」
「お父さまがこれとお思いになる人物は、名門出の秀才なんでしょう」
「いや、そうとは限らん。お前がこれと思うふ人物でもかまわんよ。あんまり素性の悪いのは困るが……。大体の選択はお前に任せる。ただいつかみたいに、相手をろくにききもしないで、まだ時期が早すぎるとか、結婚ってものはなんだかおそろしいとか、つまらん理由で話をぶちこわしてしまっちゃ困るからな。もうそんなことはないね」
父のいうことは尤もであった。が、彼女としては、ちっとも結婚を急いでいないことも事実である。現在の境遇は誰にくらべても満ち足りたものであったし、月並な恋愛が処女時代の夢を汚すように、型通りの結婚が、どっちみち得るものに比して失うものが多いということを、彼女は何時からか信じるようになっていた。
「今急にどうこうと望むわけじゃないが、とにかく、真面目に考えてみることにしようよ。問題をとりあげてだよ。それだけ約束するね」
こう真正面から嘆願するように出られては、彼女としてもいやとは言えず、母の方へちらりと笑ってみせたうえ、
「ええ」
と返事をした。
「よし、それだけ聞いておけば安心だ。お母さん、今晩は啓坊にご馳走してやってくれ給え。あ、それからな、忘れんうちに言っとくが、明日、病院へ電話をかけてね、糸田にこの間命じた書類を早く作って持って来いって……」
その時、女中が、はいって来た。
「奥さま、只今若旦那さまからお電話でございまして、伊東からお帰りにこちらへお寄りになるそうでございます。ご夕食を召上るそうでございますが、どういたしましょう?」
「あら、困ったね」
と、うっかり言って、瀧子は、
「困りもしないか。じゃ、予定を少し変えよう。海老はまだあったろう?」
「はあ、まだ大きいのが三匹も残っております」
「じゃ、あたし、今すぐ行くから……。お義姉さまも一緒ね、たしか……」
と啓子を振り返った。
「昨日から泊りがけでゴルフなのよ。ドライヴに誘われたんだけど、あたし行かなかった、そうそう、帰りがけにでもお見舞をしなけりゃって、お義姉さま、言ってらしったわ」
「そうよ、もう一月、顔を見せないんだもの、あの人たち……」
泰英は、この話には口を挟もうとしない。彼の後継者は、父博士の望む学校にはいれず、某医専をやっと卒業してすぐにウィーンに留学にやらされたのだが、金をかけた論文が遂に今もって何処をも通過せず、病院の整形外科に医局員として籍を置いているだけで、医者は性に合わんと、公然、誰にでも吹聴して歩いている。その代り、自動車の運転はもちろん、ダンスと写真は玄人の域に達しているとの評判である。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月26日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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