第6話 志摩家の人々(六)
「もう長くいるの、お客さま?」
「ええ、かれこれ二時間になるわ、なんだか込み入ったお話らしいから……」
「あたしの知らない人?」
「知ってるでしょう、日疋さんさ」
「日疋さんて、二人いるじゃないの」
「息子さんの方さ」
「兵隊に行ってた人ね、いつかお正月に来て歌を唱った……」
「ああ、そんなことがあったっけね。四五年会わないうちに、すっかり紳士らしくなって……」
「今、なにしてるの、あの人?」
「なにしてるって、お父さまのお世話で、台湾のなんとかいう会社へはいったことは知ってるけど……。休暇で帰って来たのかもしれないわ」
「ああいう人、随分いるんでしょう、お父さまに学費を出していただいて勉強したっていうような人……」
「いるらしいね、いちいちはおっしゃらないけど……。うちの病院にだって、そういう人は随分いる筈よ。お父さまはそれを先輩の義務だと思ってらっしゃるし、世話になった人は、それを当然の権利だぐらいに思ってるんだから、世の中は面白いもんね」
この時、離れのベルが鳴ったので、母は座をたった。
客が帰るのである。
啓子は、茶の間からそっと、廊下を通るその客の姿を一瞥した。
五分刈の頭が、やや猫背でいかついた肩の上につき、だぶだぶの洋服を無造作に着こなした恰好は、さっきの「紳士」という言葉からは大分遠いように思われたが、玄関まで送って出た母へ、二言三言、挨拶を述べている、その調子がなんとなく重厚な感じを与え、飾り気のない人柄を想像させた。
啓子は、その間に、父の居間をのぞきに行った。
「おお、来とったのか。長く話をしたら、少し疲れた。ちょっと、そのテーブルの上のものを片づけてくれ。みんな金庫へしまうんだ」
テーブルの上には、同じ型の帳簿のようなものがうず高く積まれていた。
「今の男、知っとるかい」
「日疋さんでしょう」
「あとでお母さんにも話すが、あの男を今度おれの秘書にしようと思ってな。台湾からわざわざ呼び寄せたんだが、なかなかうんと言いよらん」
「お父さまの秘書ぐらい、あたしで勤まらない?」
「ぐらいとはなんだ。これでも、天下の志摩泰英だぞ。本来ならこうして寝てはおれんのだ。からだはいくつあっても足らん。病院の仕事だけでも、任しておける奴がをおらんじゃないか」
父が、自分の仕事のことで、こんな風な口の利きかたをしたことは、かつて彼女の記憶になかった。明らかに異常とも思われる興奮のあとがみえた。
啓子は、そっと父のそばへ寄って行った。彼は、寝椅子の上にぐったりと横になり、強いて笑顔を作ろうとしていた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月24日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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