第10話 未知の世界(一)
事務長の糸田は、今度新しく主事という資格で病院へ乗り込んで来た日疋祐三なる人物を、まだどう扱っていいかわからなかった。
院長からは、すべて病院のことは彼の指図に従えと言われているのだが、それほどの信任を受ける何ものかが、この男にあるのであらうか?
「ええと、ここが栄養食調理場になっています。患者の希望と、主治医の命令によりまして、前日伝票を切るようにしてあります。一日三食一円、八十銭、六十銭とこう三種類に分けてありますが、大体、材料費は三分の一であげるようにしています。そうでしたね、奥野さん」
「でも、ちょっとそれじゃむつかしゅうございますわ」
瓦斯(ガス)で揚げものをこしらえていた主任は、この参観人の素性を知らず、そう答えた。
「あ、この方が、今度病院の主事になられた日疋さん、院長の代理として来られたんだから、そのおつもりで……。こちらは、栄養食の主任さんで奥野さんとおっしゃいます。女子大を卒業されて、その道の研究をなすった方です」
「よろしく……」
と、奥野女史は、羞みながら、会釈をした。厳めしいロイド眼鏡はかけているが、まだ二十五にはなるまいと思われる年恰好である。
日疋祐三は、さっきから病院のなかを案内させながら、この雑多な組織をひと通り呑み込むだけでも容易ではないと考えていた。
調理室を出ると、糸田は、また階段を上りかけた。
「おや、まだ上になにかあるんですか?」
「いや、この上は屋上です。見晴しがいいですよ」
「景色の方はまた今度にしましょう。それより、看護婦さんの寄宿は?」
「それをまず、屋上から見ていただこうと思ったんですが、それじゃ、じかに参りましょうか」
別棟になった木造三階建の入口に「白鶯寮」と書いた大きな札がかかっている。
「この名前は誰がつけたんですか?」
「内科部長の金谷博士でしたかな。以前、養成所の所長をなすっていらしった時分だと思ひます。白はつまり看護婦の服ですな。鶯は例の……」
「ナイチンゲールですか」
と、日疋は、苦笑した。
「男子の訪問は一切禁制ということにしてあります」
ひと部屋ひと部屋をのぞきながら、糸田は自分でも珍しそうにしている。
「八畳ですね。ひと部屋に何人いれるんです」
「別に定員というものはきめてありませんが、大体、平均して十五六人になりましょうか。というと無理なようですが、実際、夜分、ここで寝るのはその半分という割でしょう。患者の付添と看護室の不寝番がありますから……」
「いつか、何処かの病院で、看護婦が待遇改善の運動をしたっていう新聞をみた覚えはありますが……」
「いや、ここでは、そんなことは絶対にありません。院長の御子息が洋行から帰って来られると、まっさきに、看護婦の優遇方法を考えられましてな。いまお目にかけますが、ちゃんと娯楽室の設備もできましたし、ほかの病院に率先して公休日も作りましたし……」
ふと、首をつっ込んだ部屋に、日疋祐三は、夜具も敷かず、正体なく寝崩れている一団の女の姿をみた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月28日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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