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2014年4月29日 (火)

第11話 未知の世界(二)

 寄宿と並んで小さなコンクリートの建物があった。

「屍室です」

 と糸田は、その前で立ち止まった。

「これだけで足りますか?」

 日疋は訊ねた。

「なんとか間に合ってるようですな。亡くなった患者は、その日に運び出すのが原則ですから……」

「毎日どのくらい死にますか…」

「さあ、そいつは、時によって大変違いますが、多い時には五六人もあることがあります。一人もない日が三日続くことは珍しいでしょう」

「入院患者の数が、いま幾人でしたっけ?」

「ええ、只今のところ、三百五十六人……昨夜の調べです」

 建物と建物との間の、じめじめした通路から洗濯物がいっぱい干してある空地が見える。その向うは鉄柵を隔てて往来になっている。

「これでひと通り廻ったわけですね」

「いや、あとにまだ隔離室と、最近建増しをした実費患者の病棟がありますが、これはこの次といふことに致しましょうか……では、こちらからどうぞ……」

 スリッパの泥をばたばたと払って、糸田は暗い廊下の方へあがって行った。

 あとは医局へ挨拶をすることだけが残っている。志摩院長の紹介をもらって各部長だけは自宅を訪ねてあるのだから、医局員への紹介はそのうちの誰かがやってくれるだろう。これは昼休みの時間を利用することにしてある。

 日疋祐三は、ひとまず事務長室を引あげて、煙草を喫った。

 彼は今年とって三十三である。父は退職官吏であるが、よくあることで、ボロ会社の株をつかまされて丸裸になり、当時中學生であった彼が、学校を中途で止めねばならぬ羽目に立ち至った時、同郷の友、志摩泰英に縋って、若干の生活費と息子の学費を貢いでもらうことになった。この補助は、彼が小樽高商を卒業し、やがてこれも志摩博士の世話で台湾の製薬会社へ勤めるようになるまで続いたのである。

 ところが、就職後、彼は重役の覚えめでたく、とんとん拍子に出世をした。去年の秋、庶務課長の辞令を受け取って、久々で父母の膝下を訪れた時、ついでに志摩博士にも敬意を表しに行った。

 博士の頭に、強く彼の人物を印象づけたのは、抑もこういう機会だったに違いない。
「オリイッテソウダンシタシ シキュウジョウキョウコウ」

 この電報が彼をこのたび東京へ呼び寄せたのである。

 博士は率直に彼の財政が危機に瀕していることを訴え、病身の自分を助けて、事業の管理に当ってくれないかという相談をもちかけた。

「その方面の専門家に依頼する手もないではないが、こいつは、僕としては本意でない。もう時機が遅いのだ。技術よりも誠意、いや熱情がすべてを解決するのではないかと思う。但し、これだけははっきりさせておきたいが、僕は嘗て君の世話をしたからというんで、こんなことを無理に押しつける気は毛頭ない。殊に、君は洋々たる前途をもっている。それを見棄てて一私人のけちな事業なんかに係り合うのは、或は犠牲が大きすぎるかもしれん。それもよくわかる。が、仕事の面白味は、その仕事の大小に比例しはせんからな」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月29日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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