第1話 志摩家の人々(一)
覗き込んでいる顔のすべてが、一斉にほっとした表情になった。
華奢な親指のさきから、今、抜き取ったばかりのミシン針をピンセットでつまんだまま、若い医者は、手術着の袖口で額の汗を拭いた。そして、やや上目遣いに、
「痛かったですか?」
傷口から眼をそらして、静かに首を振ったのは、格子縞のスーツがぴったり似合い、心もちからだを捻って、椅子の背へ片肘をかけた姿態が、申分なくあでやかな二十歳そこそこの娘であった。
面長の、どちらかと言えばおとなしい顔だが、陰のない眼の張りと、口元の締り加減に、一種気位の高さというようなものを感じさせ、やや浅黒い皮膚が産毛のなかで温かな艶を含んでいた。
「なかなか強いですね」
と、医者は、照れた風でもう一度針を確かめた。
ほかに、見物とも見学ともつかず、同じ手術着を着た医者が三四人も立会っていた。院長のお嬢さんが来たというので、もう病院じゅうは評判であった。ところで外科部長が生憎大きな手術にかっていて、代りに誰かがこの令嬢の指からミシン針を抜き取らなければならぬときまった時、「おれがやる」とその役を買って出たのが笹島であった。彼はもちろん、あらゆる点で自信家の定評があるのである。
針が途中から折れていたために、意外に面倒な手術であった。ピンセットがなんべんも滑って、そのたびに彼は舌を鳴らし、いくぶん慌て気味であった。
が、もう、これでいいのである。
傷口にマーキュロが塗られ、包帯が巻かれた。
「あんまり手を動かしちゃいけませんよ。ああ、なんだったら、三角巾で吊っときましょうか」
そう言いながら、彼は、さも易々と仕事を終ったもののように、口笛を吹きながら、手洗いの方へ大股に歩いて行った。
「しばらく休んでらっしゃい」
と、一人の医者が、お愛想を言った。これは中年の鼻の頭に脂をためたレントゲン科の主任であった。
すると、もう一人の方が、勿体らしく、
「お父さんのお加減はどうですか? あなたは、やはり別荘の方にいらっしゃるんでしょう?」
それがひどく勘に障る調子なので、志摩啓子は、呆れて、その顔を見なおした。
「どっちって別にきまってませんの。その針、いただいていっていいかしら……」
と、紛らすように立ち上って、彼女は右手をのばし、血のついたガーゼの中から、ミシン針を拾いあげようとした。
その時、一人の看護婦が、手早くそいつを乾いたガーゼに包んで、彼女の手に渡し、目立たないほどの会釈といっしょに、
「志摩さん、お久しぶりね……あたし、石渡ぎん、お忘れになった?」
服装が変っていたので、これがと、しばらくは信じられなかったが、言われてみれば、なるほど、それに違いなかった。小学から女学校の二年まで同じクラスだった、あの石渡ぎんなのだ!
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月19日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、読者の便宜をはかり、現代かな遣いに改訂しています。
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