【原文】第32話 青葉若葉(十)
石渡ぎんは、日疋の力を籠めて云ふ「わかつたかい」に、はつきり、「えゝ」と答へたかつたのだが、唇がひとりでにふるへて、どうしても聲が出ない。たゞ、大きくうなづいたものであつた。
やがて、すしが運ばれ、二人は箸を取り上げたが、日疋は相手におかまひなく、瞬くうちに一皿を平げて、あとは悠々と彼女の食べつぷりを見物してゐた。
「随分お早いのね」
彼女はやつと三つ目を食べ終つたとこだから、これにはあきれた。
「あゝ、僕は、飯は早いよ。腹へ入れさへすればいゝんだから……」
ぢろゝ見られてゐるのはいやだが、このひとの前で氣取りは無用だと思ふと、やつと箸の運びも活潑になつた。
「それで、どうだい、早速訊くがね、醫者仲間の対立關係といふか、まあ、各部のにらみ合ひだな、それがあることは聞いてるんだが、君たちの氣がついてることで、直接僕の参考になるやうなことはないかね?」
日疋は、切り出した。
「さあ、さういふことで、なにかあるつてことはわかりますけど、例をあげるとなると……。でも、あたくしたちの眼には、先生がたで仲のいゝ方なんてないと思ひますわ。うはべでは調子を合はせてらしつても、蔭ではきつとお互に輕蔑してらつしやるやうに見えますわ。現に、外科の方では部長先生以外の先生方は、レントゲンを取るのに、わざわざ患者さんをよその病院へおまはしになるんですもの。――うちのレントゲンは駄目です、なんて、公然とおつしやつてますわ」
「駄目なのかね、ほんとに……?」
日疋は、意外な顔をした。
「あたくしたちにはよくわかりませんけど、やつぱり感情問題ぢやないかと思ひますわ。そばで伺つてゝ、いやあな氣がいたしますもの」
「そりやさうだらう。部長はそれでも、そこは心得てゐるんだね」
「えゝ、部長先生は、とても、病院のためを考へてらつしやいますわ。その點では、ほかの先生がたは随分無責任なんぢやないかと思ふんですの。ぐつと若い先生がたは、こりや別ですけれど……。ご自分の研究が主ですし、俸給だつていくらもお取りにならないし……」
「おい、おい、そんなことまで君たちは知つてるのかい?」
「たいがい見當がつきますわ、そりや……」
「笹島君が院長のお嬢さんをねらつてるつていふのは、ほんとかい……」
突然そんなことを云ひだした日疋の顔を、ぎんは不思議さうに見直した。
「誰からお聞きになりましたの?」
「誰でもいゝよ。笹島君つていふのはどんな人だい? 君たちの受けはいゝの?」
さういふ噂の出どころについて、ぎんはまつたく見當がつかなかつた。たゞ啓子の指の傷を最初に診て簡単な手當をし、隔日の捲替にちよいちよい顔をみせて、二言三言口を利いてゐる様子では、別にこれと云つて變なところはない。
笹島醫學士は、看護婦仲間の鼻つまみであつた。高慢でキザだといふ定評なのである。
が、ぎんの頭のなかを、いま渦巻いてゐるひとつの幻影は、この間自殺した堤ひで子と、彼笹島との、自分以外には誰も知らない關係であつた。
咄嗟に、ある激しい感情に襲われた彼女も、しかし、そのことだけはまだ日疋の耳に入れるのは早いと氣がついた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月20日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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