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2013年5月19日 (日)

【原文】第31話 青葉若葉(九)

 横濱を通る頃には、ぎんはもうすつかり啓子のことは忘れてゐた。

 それにしても、何時かのことがあつて以來、はじめてかうして口を利くのに、日疋が、病院のことをちつとも云ひ出さないのはどういふわけであらう。あの時、いろんなことを訊かれたけれども、個人の問題に觸れるやうなことは、なんとしても返事をする氣にならなかつた。それが、今なら、どんなことでも、進んで答えられるのに――さう思ふと、彼女は、少し寂しかつた。

 ところが、いよいよ新橋へ來ると、日疋は、いきなり起ちあがつて、ぎんに云つた。

「君に少し訊きたいことがあるんだが、差支なかつたら僕の家まで來てくれないか? そのへんで食事をしてもいゝんだけど、人の目がうるさいからね」

「えゝ、よろしうございますわ」

 彼女は、胸ををどらせながら、一緒に席を起つた。

 タクシイで何處をどう通ったか覺えてはゐない。

 降ろされたところは、暗い路地の中であつた。が、標札に日疋とあつたことだけはたしかである。

「たゞ今……。お客さんを連れて來ましたよ」

 彼のあとについて二階へあがつた。

 入れ違ひに、女がひとり、階段を降りて行つた。――奥さんか知ら、と、振り返つてみたが、もうその姿は見えなかつた。

 彼女は、急に不安な氣持になりあたりを眺めまはした。別に立派なといふほどの座敷ではなかつた。細かく氣をつけると、寧ろさむざむとしたもの、間に合せの住ゐといふ感じが、建具や装飾品のどれにもみえた。

――主事さんなんて、そんなに月給をもらつてないのか知ら?

 すぐにこんな考へが浮んだ。

「さあ、もつと眞ん中へ坐りたまへ。腹が空いたらう。いますしでも取るから」

 そこへ、さつきの婦人が茶を運んで來た。紹介されて、それが彼の嫂だとわかると、また彼女はどぎまぎした。が、今度は、すぐに平静をとり戻し、隣の部屋で日疋が洋服を脱いでゐるらしい物音に耳をすました。

 和服に着替へて出て來た彼は、まるで別人のやうに若く見えた。すると、その調子まで書生つぽのやうな氣軽さで、

「そんなに固くなるのよせよ。今日は友達として話すよ。君もさうしてくれ。もうだいぶん仲善しになつたからな」

 その言葉を言葉どほりに受けとることは容易であつた。彼女はちよつと膝を崩す眞似をし、片手を畳について、指で代る代る拍子をとつてゐた。

「僕はね、君を見込んで、今日は、ひとつ、重大な役目を仰せつけるよ。いゝかい、よく聴きたまへ。これはむろん、誰にも秘密だ。二人の命にかけてその秘密は守らなくつちやいかん。君は、今後、僕の腹心になつた働いてもらひたいんだ。腹心つて、なにかわかるかい? 心を許せる味方だ。といふ意味が、僕の仕事はだね、これやなかなかむづかしい仕事で、場合によつては誰彼を敵に廻さなけりやならんのだ。それが敵とわかれば、文句はない。一刀兩斷さ。しかし、そいつがうつかりするとわからんのだよ。今、あの病院は、君の云ふとおり、乱脈さ。大手術が必要だ。一日遅れゝば一日黴菌がはびこるといふ状態だ。むづかしいことは云はない。君はたゞ、君の接してゐる範囲内でこいつは病院のためにならんと思ふ人間の名前を、そつと僕の耳に入れてくれゝばいゝんだ。わかつたかい?」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月19日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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