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2013年5月18日 (土)

【原文】第30話 青葉若葉(八)

 石渡ぎんは、ひとりで江の島の海岸をぶらつき、五時きつかりに大船驛へ戻って來た。なるほど景色はいゝにはいゝが、感嘆の叫びをあげるには連れのゐないことが物足りなく、時々ハツとわれにかへると、こんなことをしてゐていゝのかという風にわけもなく氣がとがめた。

 廣くもない待合室のあちこちへ急いで眼を配つてみたが啓子らしい姿はみえない。

 十分、十五分と、遠慮なく時間がたつた。

 時間がたつにつれて、啓子と自分との間に妙な距りが感じられた。

 彼女は、無我夢中で切符を買ひ、丁度そこへ着いた上り列車へ飛び込んだ。

 と、すぐ眼の前で夕刊を讀んでゐた男が、前の席へのせてゐる足をおろして、

「なんだ、君か、まあ掛けたまへ」

 帽子をかぶつてゐるので、すぐにはわからなかつたが、彼女は、それが日疋祐三だと氣がついて、思はず、

「あらッ」

 と、大きな聲を出した。

「はゝゝそんなに驚くことはないさ。今日は休み?」

「はあ」

 やつとさう返事をしたゞけで、彼女は、もう顔をあげてゐられないほど眞つ赤になつた。

「そこ、空いてるんだよ。誰かと一緒なの?」

 日疋は更に訊ねた。

「いゝえ。……」

 口のなかで云つて、彼女はそつと彼の前へ腰をおろした。

 下手に羞んでゐるやうに思はれるのはいやだが、どうすることもできない。しかし、それも瞬間のことで、だんだん落ちつきを取りかへすと、彼女らしい機轉で、まづ顔をぐいとあげ、目立つほどの溜息といつしよに、自分で自分を可笑しがるやうに笑ひだした。

 日疋もつりこまれて、しぶしぶ相好をくづし、

「なにが可笑しいんだ? こつちに家でもあるの?」

 と、急に、眞顔になつた彼女はそれこそ行儀のいゝ小學生のやうな物腰で、

「いゝえ。あたくしの家なんて、病院の寄宿舎以外にございませんわ」

「ふむ、さういふひともゐるんだね」

 彼は、感心したやうに首をふつた。が、その、ぶしつけな視線を避けようともせず、彼女は、上目使ひに、相手の表情からなにか打ち融けたものを讀みとらうとしてゐた。

「先生はどちらへいらつしやいましたの?」

 やつと、それだけのことが云へるやうになつた。

「僕? いや、ちよつと清水のそばまで用事があつてね。昼すぎに院長の別荘を出て、一時何分からの下りだ。忙しい旅行さ」

「まあ、ほんとに……あたくしたち、二時ちよつと前に大船へ着きましたの。入れ違ひでしたわね」

「へえ、君も鎌倉山かい?」

「いゝえ、あたくしは江の島見物……院長先生のお嬢さまと途中までご一緒でしたわ」

「ふうん……啓子さんね」

 その話はそれきりであつた。

 やがて、日疋は、農園から土産に貰つて來たといふ苺の箱をあけ自分がまづひとつ口へはふり込みぎんにも薦めた。

「うまいだらう」

 催促をされて、彼女は、たゞ、眼を細くした。雄弁な味ひ方だと彼は思つた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月18日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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