【原文】第28話 青葉若葉(六)
スパイといふ言葉に、啓子は、ちよつと眼をみはつたが、石渡ぎんは、急に調子をかへて、
「きれいね、お庭が……。鎌倉の方へは時々いらつしやるの?」
と云つた。
「えゝ、土曜から日曜へかけて大概行くわ。昨日は、でも、先生のお宅で集まりがあつて夜おそくなつちやつたもんで……。丁度よかつたわ」
「あちらではお待ちになつてらつしるんでせう?」
「うゝん、電話かけといたから、大丈夫。それに、近頃は、臨時にちよいちよい顔を出すから……」
「院長先生のご病氣はどんな風か知ら?」
誰云ふとなく、病院では、院長先生は胃癌だといふ評判がたつてゐたが、石渡ぎんはそれをたしかめる勇氣はどうしてもなかつた。
「わりに元氣よ。ずつと寢てゐられないくらゐですもの。たゞ、目に見えてよくならないのが、ぢれつたいわ。自分がお醫者だと、からだより病氣の方を大事がるみたいなところがあつて……」
啓子は、ほんとにさう思ってゐた。が、それを洒落ととつて、ぎんは、にらむ眞似をした。
やがて晝になつた。歸るといふのを無理に引止めて一緒に食事をした。
それから、二階のホールでレコードをかけて聴かせ、讀みたいといふ本を出して來てやり、バルコニイへ椅子を並べて、めいめいに讀みはじめた。
石渡ぎんは、しかし落ちつかぬ様子であつた。
場所に馴れないせゐもあらう。が、それよりも、彼女の心がもうこゝにないのである。
「志摩さん、どつかへ行かない? 少し歩いてみない?」
一時間もたゝないうちに、彼女は、書物をテーブルの上へ伏せた。
「さうしてもいゝわ。どこ、行くとすれば……? 銀座?」
「どこだつていゝのよ。できるだけ遠くへ行つてみたいわ。今夜帰れさへすれば……」
啓子は、この提議に應じて勢ひよく起ち上がつた。
「ちよつと待つてね、支度して來るから……」
二人は東京驛から横須賀行へ乗つた。三等車は相當込んでゐたけれども、二人の席は樂にとれた。
「胸がどきどきするわ、かうして、旅行するんだと思ふと……」
ぎんは子供のやうに眼を輝かし、かはるがはる左右の窓を見た。
「あら、これが旅行? 大船までぢや可哀さうね」
「そんなことないわ。大船なんてあたしたちには思ひつかないわ。歸りに時間をきめといて、驛でお會いすればいゝわね」
「どうしても寄らないつておつしやるなら、それでもいゝわ。あたしは、ちよつと家をのぞいて來ればいゝんだから……」
「でも、折角……」
「いゝのよ、いゝのよ……。明日學校があるから晩はどうせ泊まれないんだし、歸りは銀座でランチでもたべませう」
それで、大船へ着くと、五時まで自由行動をとることにし、啓子は、途中でバスを降りた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月16日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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