【原文】第26話 青葉若葉(四)
「學校時代にたつた一度、お宅へ伺つたことあるわ、多勢で……」
石渡ぎんは、あたりを見廻すやうにして云つた。
「お節句だつたわね」
「いゝえ、お兄さまがおうつしになつた十六ミリを見せていたゞきによ。みんなが行くつていふから、あたしも何の氣なしについて來たの。そしたら……」
「そしたらどうしたんだつけ?」
「お家があんまり大きいんでびつくりしちやつたの。それと、お母さまがやさしいお母さまで、あたし、なんだか歸りたくなくなつたこと覺えてるわ」
「ほんと、さう云えば、あなた、あの頃からお兩親がおありにならなかつたわね」
「兩親も同胞もないのは、あたしきりだつたわ。でも、今のやうな仕事には、その方がいゝんだつて氣がするのよ。結局、自分つてものを考へちやゐられないんですもの……」
さういふことを、サバサバとした口調で、なんの誇張もなく云ふ、それが啓子には氣持がよかつた。
八畳の日本間に、机椅子をおいて、本箱を飾つて、簡素ながら女學生の書斎といふ趣がたゞ色彩のなかに示されてゐるだけであつた。開け放された縁の障子に、ぽたりとインキの汚點(しみ)がついてゐる。
「こないだのお話、あれつきりになつちやつて……。どう、今度來た主事つてひとは? あたしはまるで知らないつて云つていゝんだけど、評判わるかない?」
啓子は、共通の話題を探さなければならぬ。
「實はね、そのこともあるんだけど、あなたに御相談があつて來たのよ。病院のなかは、いま大變だと思ふわ。あの方がいらしつたのはそのためだらうとは思ふけど、下手をすると却つて始末のつかないものになりさうよ。主事さんて方、あたしは立派な方だと思ふの。院長先生は、やつぱりあゝいふ人物に目をおつけになるんだなと感心したわ。でも、ほかの人から見るとどうか知ら……? 看護婦たちは、まあいゝのよ。先生方のうけが少しどうかと思ふわ。殊に、外科のある先生が大きな聲で悪口を云つてらつしたのを、あたし聞いたから……」
「ちよつとお醫者さんとは合ひさうもないわね。ガツチリ屋なんですつて?」
「さう見えるわね。でも、話のとてもよくわかる方だと思ふわ。あたし、ちよつとお話しただけだけど、理屈さへ通れば、この人の前で何を云つても平氣だつて氣がしたわ。そんな風に頼もしいところがあるの……」
さう云つて石渡ぎんは、心もち頬を染めたのを啓子は見逃さなかつた。
「へえ、フアンもあるわけね」
啓子は、すかさず冷やかした。
が、ぎんは案外平氣で、
「こないだ、堤つていふ看護婦が自殺したの、ご存じ?」
「えゝ、聞いたわ。新聞にも出てたつて……」
「あたしの親友なのよ、それが……。動機はもちろん単純なもんぢやないわ。婦長に叱られてなんて新聞に書いてあつたけど、やつぱり戀愛の悩みからだつてことは、あたしにはわかつてるの。うん、まあ、それやどうでもいゝけど、その事件で、主事さんのところへ、あたし出かけてつて談判したのよ。さんざん、逆にお説教されちやつた」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月14日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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