【原文】第25話 青葉若葉(三)
かうして、この二人は、どんなことがあつても正面からぶつかるといふことはないのである。それも、どつちが相手をすかすといふわけではなく、お互の性格、氣質の特別な組合わせが、自然に相犯さざる關係を作つてゐるらしく、それだけに、親しいのか、他人行儀なのかわからないやうなところもある。
三喜枝の、例によつて羽目をはづす癖を、啓子はそれほど苦々しくは思はず、却て、それはそれで面白いといふ風に眺めてゐた。
と、そこへ、啓子にと云つて電話がかゝつて來た。
「あたしぢやないの?」
と、三喜枝は念を押して、つまらなさうに口を尖らした。それへ、女中は、
「よくお聲が聞こえませんのですが、女の方で、イシワタとかニシワタとかおつしやいましたやうでございます」
「イシワタなんてひと、知らない、あたしは……。誰よ、啓ちやん」
「あゝ、わかつた……石渡(いしわたり)ぎんさん……。あとでお話するわ」
と、啓子はホールを抜けて階段を駈け降りた。
電話口で、
「もし、もし、あたし啓子……。しばらく……ぢやなかつた、昨日は、失禮……。えゝ、なんともないわ。繃帯、もうとつてもいゝんだけど、でも、指の色が變になつちやつたから、どうしようかと思つて……。あら、さう、いゝわねえ……。うゝん、家にゐるわ。……うん、それでもいゝけど、なんなら、すぐいらつしやいよ。……いやだわ、そんな……大丈夫よ、だあれもゐないから……。ぢや、お待ちしてるわ」
三喜枝は、石渡ぎんが何物であるかを知つて、
「へえ、そんなひとがあの病院にゐたの。でも、よく遊びに來る氣になつたわ」
「どうして?」
「どうしてつて、今の身分でさ。大概遠慮しさうなもんだわ」
「だつて、あたしが遊びにいらつしやいつて云つたんですもの。それに……」
と、云ひかけて、啓子は、この嫂にこれ以上のことを喋る必要はないと氣がついた。
いつか病院の歸りがけに、電車道まで送つて來ながら石渡ぎんが話しかけた話を、さう云えばその後つゞけて聴く折がなかつた。一日おきに病院では顔を合わせてゐながら、向うもちやうど忙しいらしく、こつちもつい、話を引出す便宜がないやうなわけで、そのまゝになつてゐたのを、多分、彼女はもう待ちきれずに、今日やつて來るのであらうと、啓子はとつくに察してゐた。
で、ぎんが來ると、早速、自分の居間へ通して、
「ようこそ……。さ、ゆつくりなすつてちやうだい。やつぱり、さうしてらつしやると昔の通りね。白い服も立派だけど、その方がお話がし易いわ」
と、彼女は、舊友石渡ぎんのキリゝと結んだ帯へやはらかに微笑みかけた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月13日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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