【原文】第24話 青葉若葉(二)
――あなたと一緒にゐれば誰も退屈はしない、といふ意味は……? むろん、嫂の言葉に皮肉が含まれてゐる筈はなく、啓子は、それをまた皮肉と取るやうな風をする女でもなかつた。至極あつさりと受け流して涼しい顔をしてゐられる得な性分であつた。
「ねえ、啓ちやん、それよりね、あなた近頃病院へ行つて、あの日疋つていふ男に會はなかつた?」
手摺へもたれたまゝ、三喜枝は、彼女の方へからだをねぢ曲げた。
「會つたわ。どうして?」
「昨日あなたの留守に家へ來たのよ」
「さうですつてね」
「あらもう聞いたの?」
「君やがさう云つたわ。あの方は一體どういふ方でございますかつて、さも不思議さうに訊くから、あたし、をかしくつて……」
「だつて、変つてるぢやないの。ちよつと家へ出入する人んなかで類がないわ。恰好が第一、運動選手の親分みたいでさ。横柄かと思ふと、いやに慇懃なとこもあつて、こつちは面喰ふわ。面喰ひもしないけど、取扱ひに不便だわ。兄さまから伺つてたから、まあ、見當はついてたけど。……お父さまも、また、なんだつて、あんな男に家のことをお委せになつたんでせう」
「それだけの腕があるとお思ひになつたんだわ、きつと……。わかりやしないけど……」
「ねえ、わかりやしないわよ。てんで、あたしたちの生活なんていふもんに理解がなささうよ。どんな風に切り廻すにしても、それを心得てゝくれなけりや、他所とのお交際(つきあひ)ができなくなるぢやないの」
「でも、あの人、そんなことまで干渉するか知ら?」
「まあ、呑氣なこと云つてるわ。あたしたちの生活費は、これからいくらいくらつてきめられちやつたのよ」
「せんからきまつてたんぢやないの?」
「大體はね、でも、要るだけのものはどつか知らからはひつて來たけど、今月からは、豫算を超過したら翌月分から差引くつていふわけなの。まるで、安サラリイマンの暮らしよ。その代り、支拂萬端のことは、あの人が直接やつてくれるんですつて……」
「呑氣でいゝぢやないの」
「兄さまはかう云つてらつしやるわ――なに、どしどし買ふものは買ひ込んで、あいつに拂はしてやれ。拂へなくなつたつてこつちの責任ぢやないつて……」
「それも一案ね。でも、あとで困るのはやつぱりこつちなんでせう?」
「現金で買はなけりやならないものが、ちよつとね、それだけが不便よ」
「あたしは、まあ、そんなに不便はないけど……」
「いゝわね、鎌倉山へ行けば、さあさあ持つておいで、だから……。少し、こつちへ廻しなさいよ」
「えゝ、いくらでも……」
と、啓子は、眞顔で云つた。それが可笑しいと云つて、三喜枝は、キヤツキヤツと笑つた。
植込のつゝじの肉色に咲き亂れたなかを、どこかの猫が一匹、忍び足で逃げて行つた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月12日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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