【原文】第23話 青葉若葉(一)
本郷千駄木の、電車通りから離れた靜かな一角に、大谷石を積みあげた塀が一丁も續いてゐる大きな邸がある。鐵柵の門の扉に盾の模様をあしらつた構へがちよつと見ると外國の公館そのままで、たゞ門番小屋から、車庫(ギヤレーヂ)の前を通つて内玄關の前へ來ると、檜造の母屋の一部が植込の蔭からのぞいて、格子戸のなかの履脱ぎには、白トカゲの女の草履が一足、キチンと揃へてある。
葉の出そろつた朴の大木が、白い玉砂利の上にまばらな影をおとして、五月の微風は、青々と、匂ふやうであつた。
啓子は今日の日曜を鎌倉山へも行かず、兄夫婦を送り出して、ひとり靜かに本でも讀もうと思つてゐると、嫂の三喜枝が、出がけに、兄と云ひ爭ひをして、たうとう自分の部屋へ引つ込んでしまつた。兄はめずらしく、啓子にも當りちらして、車を出させたのである。
そのすぐあとのことである。
二階のバルコニイで、啓子は、取り寄せたばかりの新刊の小説を讀み耽つてゐた。
近頃、目立つて兄の機嫌がわるくなつた。その原因は、彼女にも察しがつくので、それはお小遣ひが以前ほど自由にならないところから來るのであつた。
だが、かういふ一家の經済的變動も、啓子の身分では、まだそれほどの影響も受けず、洋服の注文をする時など、母の意向を訊いてみると、「まあ、それくらゐのもんなら」と云つて、造作なく承知してくれるので彼女の覺悟もつい鈍るといふ次第であつた。
それに引かへて、嫂の三喜枝は、時々欲しいものが手に入らないと云つてこぼすやうになつてゐた。今日のどさくさも、もとはと云へば、彼女のおねだりが功を奏さなかつたことにあるらしい。
「あゝあ、着物きかへて損しちやつた……」
あらはに、兩腕を高く、伸びをする格好で、三喜枝は、再びそこへ現れた。
「せつかくよくお似合になるのに……」
その方は見ずに、啓子は、書物から眼をはなしたゞけである。
「もうぢき電話かけて寄越すわ。だつて、あたしが行かなけや、麻雀できやしないもの」
「あら、今日はゴルフぢやないの?」
「この恰好で……? 戯談よしてよ。町田さんとこ、ほら、お座敷でせう、洋服ぢや變なの、だから」
「あたしも、なんとかして遊びたいなあ」
啓子は、思はず溜息をついた。
「だから、いつでも誘つてあげるのに、なんとかかんとか云つて斷るぢやないの?」
「えゝ、そりやさうだけど……やつぱり、なんかして遊びたいわ」
「さう云へば、啓ちやんは遊ばないのねえ。たまに映畫見に行くぐらゐぢやない?」
「たまにね、えゝ……。人と一緒に遊ぶつていふのが億劫なのか知ら……? 第一、わたし、不器用だから……」
「勝負嫌ひなのね」
「勝つのは好き、負けるのは嫌ひ」
「誰だつてさうよ。いゝから、ためしに、あたしたちの仲間入りしてごらんなさいよ。お友達もできるしさ」
「お友達なら、いくらだつてあるわ」
「悪友がないだけか。ほんと、あんたには、遊ばしてくれるお友達がないんだわ。みんな、あんたと一緒にゐるだけで退屈しないから……」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月11日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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