【原文】第22話 未知の世界(十三)
日疋祐三は、眉をちよつと寄せたきり、黙つて相手を見つめてゐた。
思ひがけない事件の発展に驚くといふよりも、この女がなんのために、今、自分の前でこんなに泣いてみせるのか、そのわけが呑み込めなかつた。
「なんて云つたつけね、その、君の友達つていふ女(ひと)は?」
「堤さんです……堤ひで子……」
顔をそむけたまゝ、やつと涙を拭いた彼女は、心もち釣りあがつた切れの長い眼を、ちらと日疋に注いだ。
「で、堤君はどうして自殺する氣になつたの? 君はそれを知つてるんですね?」
「……」
「知つてるなら云ひたまへ!」
「それや、いろいろ複雑な氣持からだらうと思ひますわ。とにかく婦長さんから侮辱されたつて、それや口惜しがつて……。でも、そんなことは、今さう云つてもしやうがありませんわ。たゞ、あたくしの申上げたいことは、堤さんが潔白だつていふこと、婦長さんは何か誤解してらつしやるつてこつてすわ。二人は平生から仲がわるかつたんです。婦長さんは自分の氣に入らない看護婦には、それやひどいことをおつしやるんです。……」
「待ちたまへ。婦長の役目は、君たちを取締ることだらう。病院の規則を犯したものに叱言を云ふのは當り前だ。君は、その點で堤君を弁護する余地がありますか?」
「でも、男の患者と映畫を観に行つたことが、死に値する罪でせうか知ら?」
「馬鹿なことを云ふね、君は……。死に値すると誰が云つた?」
「結果はさうぢやございません? そこを考へていたゞきたいんです。あたくしたちは、もつと希望を與へられてもいゝと思ふんです。小さな過ちが眼の前を眞っ暗にしてしまふ、さういふことがあんまり多すぎるんです。この病院のなかで、どなたかゞ、それをちやんとわかつてゐて下さらなければ、あたくしたち、働いてゐる女たちは、不安で不安でしやうがございません……」
石渡ぎんは、さう云つて、ほつれ毛を兩手で無造作にかきあげたそのまゝのかたちで、いつとき、ぢつとしてゐた。何かを思ひつめた女の、半ば自分を忘れたといふ風であつた。
が、この時、日疋祐三は、この女の皮膚の透き通るやうな白さに氣がついた。彼は、その顔をのぞき込むやうに、からだを屈め、
「おい、君、さういふことをわざわざ僕に云ひに來たのかい? しかし、君の友達は、今、死にかけてゐるんだらう? どうして側についてゐてやらないんだ?」
彼の探るやうな眼附をわざと避けるやうに、彼女は、聲を落して云つた。
「さうですわ。ほんたうはさうしたかつたんです。でも、堤さんはもう助からないことがわかりました。堤さんが苦しんでるのを最初に見つけたのがあたくしなんですの、先生がたが駈けつけて來て下すつた時は、もう遅かつたんですわ。それに、堤さんは、あたくしがここへ來てることは、きつと知つてますわ……」
この最後のひと言は、謎のやうに日疋の胸に殘つた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月10日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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