【原文】第21話 未知の世界(十二)
「その連中は、で、今、あなたの部屋にゐるんですか」
日疋は、「やれやれ、もうはじまつたか」といふ氣持で、糸田に訊ねた。
「いや、ひと先づ引取らせました。何か要求があれば、そいつを個條書にして來いと云つてやりました。なに、結局は、規則がやかまし過ぎるといふわけなんでせう。男の患者と一緒に外出するのがわるければ、同じ部屋に籠ぢ込めておくのはなほさら變ぢやないか、なんて、圖々しいことを吐かす奴もゐましたよ」
「どうも僕にはよく呑み込めないが、大體、その多勢でやつて來たといふのは、病院に對するいろんな不滿を云ひに來たのか、それとも、何かひとつの要求を通すために、別の難題を持ちかけるわけなのか……」
「そこがどうも私にもはつきりしませんのですが、とにかく、橋本さんが一看護婦に對して病院を出ろと云つたことが、みんなを激昂させたらしいですな」
「だつて、それや……」
婦長が遮らうとするのを、糸田は、
「いや、それを私が悪いといふんぢやない。あなたには十分、それを云はなけれやならなかつた理由はあるでせう。しかし、これは、主事さんなどもさうお考えになると思ふが、女が女の過失を云々するといふのは、どうもこりや、素直に受取られにくいんもんでしてな。そこに、なんと云ひますか、妙な感情がはさまるやうに、私には思へてならんのだが……」
橋本婦長は両手を前に組み合わせて、ぢつと下を向いてゐる。
「よろしい。婦長さんに反抗したといふ、その本人を僕のところへ寄越して下さい。僕から解雇を云渡しますから……」
日疋は、自分の部屋へはいるとソフアーの上で長々と伸びをした。
「一度看護婦を全部集めてお説教をしてやるからな」
廣い講堂にずらりと並んだ白一色の彼女らの姿を想像し、彼はひとりでに微笑を浮かべた。が、考へてみれば、それらの顔のうちに、どれひとつ彼にとつて馴染のある顔といふものはなく、漠然と頭のうちに描かれた顔のひとつひとつが、ふと、さつき會つた志摩啓子に似て來るのがをかしかつた。
もう昼に近いころだと思ひ、腕時計を見ると、まだ十時を少しまはつただけである。
鞄へ入れてもつて來た債務關係の書類を引き出して眼を通しはじめた。
すると、その時、廊下を走るけたゝましい跫音が聞え、やがて、扉(ドア)の外で何やら云ひ争ふ女の聲が、
「あんたは豫計なとこへ顔を出さなくたつていゝから、あつちへ行つてらしやい……」
「いゝえ、ほかの方では、お話がわからないんです。あたしは堤さんの代りに主事さんにお目にかかります……」
日疋は、中から扉(ドア)をあけた。
一人の若い看護婦が、引止めようとする婦長の手を振りはらつて日疋の後へ廻つた。
「僕に委せておおきなさい」
彼はさう云つて、静かに、婦長の眼の前の扉(ドア)を閉めた。
「君かい、昨夜、患者と映畫を見に行つたつていふのは?」
「いゝえ、あたくしぢやございません。それは堤さんていふ方ですわ。あたくしの親友なんです。とてもいゝ方ですわ……。あ、あたくし、石渡ぎんと申します……」
「で、どういふわけで、その堤さんは來ないの?」
「だつて……たつた今、昇汞水(しょうこうすい)を……飲んで死にさうなんですもの」
突つかゝるやうにさう云ふと、彼女はいきなり、ハンケチを眼に押しあて、眉をふるはせて泣きだした。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月9日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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