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2013年5月 7日 (火)

【原文】第19話 未知の世界(十)

  泰彦はソフアーに埋まり、腕組みをしてゐた。強いて冷静を装はうとする風がみえる。が、さういふ内心の争闘に馴れない證據には、顔面の筋肉が硬直して、薄い口髭がギコチなくふるへてゐた。

「院長からは全然さういふお話はなかつたんですか」

と、日疋は、いくぶん親しみを籠めて云つた。

「いや、全然聞かないわけぢやなかつた。しかし、君のいふやうに、今すぐどうなるといふ風には聞いてゐない。僕にだつて用意があるからねえ。程度如何によつては、現在の生活を根本から變えてかゝらなけりやならんのだから……」

「それを僕からも云ひたいんです。まだ全體のことがよく頭にはひつてゐませんから、どこをどうするといふ案は細かく立つてはゐません。しかし、この病院の經済だけは、健全なものにしておく必要があります。會計を調べたところによると、用途不明の金が直接お手許に行つてゐるやうですが……」

「用途不明といふことはないさ。いちいちおやぢの許しを得てるんだから……」

「院長のですか、それなら結構です。ところで、今後は、院長ではなく、僕の承認を得てといふことにしていたゞきたいんです。何れ、經費の點は鎌倉の方と、ご本宅の方と、別々に預算を組んでそれぞれご相談をすることにします。大體の見當では、これまでの約十分の一に切りつめていたゞくつもりです」

「十分の一といふと……?」

「年額、兩方を合わせて一萬五千圓以下……」

「僕の小遣にも足らんね、それぢや……」

「そんなことを云つてる場合ぢやありませんから……」

「へえ、さういふ計算がどこから出て來るのか、僕にはわからないんだ。それぢや、まるで乞食の生活ぢやないか」

「乞食の生活がどんなもんか、あなたはご存じですか?」

 思はず蔑むやうな調子になるのを、日疋は、ぢつとおさへて、

「おわかりにならなければ、いくらでも説明します。とにかく数字をごらん下さい。今のまゝでは、こゝ一年、いや、半年を過ぎないうちに、志摩家は破産の宣告を受けるでせう」

 破産といふ言葉で、泰彦は、にやりと笑つた。糞度胸をきめたのかと云へば、決してさうではなく、相手のおどしを軽くあしらふつもりであつた。

「君はたいへん志摩家のことを考へてゐて下さるやうだが、僕と君とは、なるほど、二三度以前に會つたことがあるだけで話もろくにしてゐないし、いきなり、今、僕の眼の前で、さういふ口の利き方をされても、どこまで信用していいのか、こりやちよつと迷ふからね。そりや、おやぢが馬鹿に惚れ込んでるといふ話は聞いた。だからつて、僕が君の云ふなりになるとは限らんからね。さう、高飛車に出る手は、近頃流行らないよ」

 この啖呵は、日疋の眼には、他愛ない少年の拗ね方に似てゐた。

「はゝゝゝ別に高飛車に出るつもりもなかつたんですが、言葉がつい荒くなつたことは僕も認めます、喧嘩はよしませう。とにかく、僕は、志摩家のために、献身的に働くつもりですから、どうか働きいいやうにして下さい。それに……」

 と彼が云ひかけた時、ノツクといつしよに扉(ドア)があいて、

「ぢや、お兄さま、あたし、お先へ失禮してよ」

 半身をのぞかせながら聲をかけたのは、かすかに見覺えのある若い女であつた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月7日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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