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2013年5月 6日 (月)

【原文】第18話 未知の世界(九)

 突然、荒々しく扉(ドア)を叩くものがある。

 日疋祐三は、それと察して、席を起つた。

 見かけは瀟洒たる青年紳士で、以下にも洋行歸りのドクトルといふ押し出しもあり、いくぶん神経質らしい額を除いては、健康と贅澤に満ちた風貌の持主が、手を後ろを組んだまゝ、のつそりはひつて來た。

「やあ、しばらく……。僕、泰彦です。こんどは病院のことで、お骨折りを願ふさうで……」

 挨拶は挨拶だが、明かに敵意を含んだ語調である。

「これはどうもわざわざ……。一度お宅の方へ伺ふつもりでゐましたが、つひ馴れない仕事に追ひまくられて、失禮してゐます。今度院長から病院の管理を仰せつかりました。全責任を負へといふ命令です。及ばずながら、努力してみるつもりです」

 泰彦は、部屋の中をぶらゝ歩きまはつてゐる。

「父からどういふ風にお願ひしたか知らんが、この病院は、われわれ志摩一家のものが、うちの病院と呼んでゐる通り、これは決して他人のあなたが自由になるやうな性質のもんぢやない。僕は志摩家の相續者として、かつ、醫者たることの義務上、この病院の管理について、若干の意見をもつてゐる。それをあなたに承知しておいてもらひたいと思ふんだ」

 あなたがあアたと聞こえる例の貴族的な発音が耳ざはりであつた。

「もちろん、ご意見は参考のために承ります。あなたがそれほどこの病院の仕事に關心をおもちになつてゐることがわかれば、僕としても非常に氣丈夫です。率直に云ひますが院長はあなたを當てにしてはをられません。恐らく、眞意が通じてゐないものと思はれます。僕は単に、この病院の管理を委されただけではないんです。志摩家の財産全般――この點は、まだご承知ないかも知れませんが――志摩家の財政は文字通り危機に瀕してゐる、それをなんとか切り抜ける方法について、僕は今研究中なんです。いづれ具體案を得次第、整理に着手します。序にお含みおき下さい」

 これを聞きながら、泰彦は、そつと立ちどまつた。と、急に、日疋の方へ歩み寄り、

「君、それや、ほんとですか? だつて、さういふ話はおやぢから一度も聞いたころはない。誰からも聞いたことはない。自分の家の財政が苦しいなんていふことは、一番に僕が感づくわけなんだ。おやぢは、僕が請求するだけの金を毎月寄越してるんだぜ」

「さうでせう。だから來月から、僕が出さないやうにしますよ」

 さう云ひ終るのを待たず、泰彦は顔色を變えて部屋を飛び出した。

 その狼狽ぶりは、誠にみぢめであつたが、少し藥が利きすぎて、何を何處で喋らぬとも限らぬ様子がみえたので、日疋祐三は、ひとまづ彼を落ちつかせる必要を感じ、その後からついて行つた。

 院長室のなかへ姿を消した泰彦を、再びつかまへることは容易であつた。

「どうしました? そんなに驚くことはないぢやありませんか。もつと順序を立てゝ、詳しくお話すればよかつたんだが、あなたの鼻息があんまり荒いもんだから、對抗上、僕も咄嗟に、自分の立場を守つたゞけです。病院は病院として、志摩家の財政問題は、將來、あなたにも考へていたゞいて、ひとつ、無理のないやうにしませう」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月6日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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