【原文】第17話 未知の世界(八)
昼近く、糸田事務長が頭を掻きながらやつて來た。
「どうも弱りました。今朝、出がけに、本宅の方からお召しがありましてね、若先生から根掘り葉掘り、ご訊問です。いや、これにはまつたく……」
「なんです、訊問とは?」
彼には、まるで見當がつかない。
「はゝゝ、あなたのことですよ。なんのために主事といふやうなものが必要なのか、と、まあかうなんです。院長がお見えにならんから、事務の代行をなさるんだつて申上げますとね、そんな事務ならおれが執ると、えらいご剣幕です。しかし、院長先生のお考へできまつたことですからと、わたしは逃げましたよ。するとね、今度はどうでせう、それはお前がだらしがないからだ、事務長の上に主事がゐて、お前の仕事はいつたいどうなるんだと、これやまあ、一應、誰でも首をひねるところですがね……」
「ちよつと待ちたまへ。誰でも首をひねりますかねえ?」
日疋祐三は聞きとがめた。
糸田事務長は、眼をぱちくりさせ、
「いやいや、事情のわからんものはです。と云ひますのが、若先生は、やはりその、病院のことについては、ご自分にいろいろ意見がおありでしてな」
「へえ、どんな意見だらう? 早速伺ひたいもんだな」
「今日、こちらへお見えになる筈です」
「いや、僕の方から出かけませう。都合を訊いてみて下さい」
「それやまあ、どちらでも結構ですが、只今私の申し上げたことは、ひとつ、御内密に……」
本宅へ電話をかけると、もう若先生はお出ましになつたといふ返事である。
が、それきり、日疋祐三は目の前の仕事に追はれて泰彦のことをつい忘れてしまつてゐると、やがて糸田がまたやつて來て、
「院長室までちよつと……若先生がお目にかゝりたいとおつしやいますから……」
と云つた。
「この病院のなかでは、僕を呼びつける権利のあるものは一人もゐない筈だ。さう云つてください」
「はあ……。しかし……」
「しかしも糞もないでせう? 自宅なら僕の方から出向いてもよろしい。勤務先では一醫局員としての資格でお話し願ひたい。御用があれば、こゝでお目にかゝりませう」
糸田は後ずさりをしながら出て行つた。
院長の志摩博士が、息子のことについて彼に一言漏らした言葉は、かうであつた。
「泰彦は醫者としては將來見込みはないと思ふ。若し學位でも取つてゐれば、副院長といふ名義にしておいてもいゝが、それにしても、こいつは實力の問題でね、ほかの醫者がをさまらんやうでは困る。なにしろ、呑氣坊で、君の相談相手にはならんよ」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月5日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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