【原文】第16話 未知の世界(七)
「なるほど、男の患者と一緒に外出するとは規則違反なんですね。で、それを罰する方法はきまつてゐないんですか?」
「はあ、別に……」
「今迄、それに類したやうなことはないんですか?」
「ございましても、これといふ證據があがりませんもんですから……」
「ぢや、今後を誡めておけばいゝでせう」
「いえ、そんなことでは、とても改まりつこはございません」
「ほう、すると、どんな程度に?」
「あたくしにはわかりませんですが、風紀の問題は、よほどやかましくいたしませんと……」
「同感です。では、思ひきつて首にしませうか? どんな女(ひと)です、平生は?」
「あまりよろしい方ぢやございませんのです。なにかにつけてほかのものを煽動するやうなところもございますし……」
「ひとつ、事務長とも相談して、なんとか處置をしませう。あなたは失禮だが、獨身ですか?」
「はあ……どうしてゞございます?」
「どうしてといふわけもないが、ちよつと伺つておくだけです」
強い近眼に特有の、あの瞳の据えた方で、彼をぢつと見た彼女は、決して醜い方ではなく、白粉氣のちつともない、引きしまつた顔だちの、ちよつと佛像を想はせるやうな印象が彼の好奇心を惹いた。
「あなたは、橋本さんとおつしやいましたね」
「さやうでございます、橋本順子と申します」
「まあ、おかけなさい。病院のことをいろゝ伺ひたいから……。どうです、看護婦さんたちは、大體満足して働いてるやうですか?」
「あたくしは、満足して働いてをります。看護婦つていふものは、いつたいに、不平家が多うございまして……」
「おや、なぜでせう?」
「上の學校へ行きたくつて行けなかつたつていふものが多いせゐぢやございませんか知ら?」
「家庭の事情でね。つまり、野心勃々たる連中が多いわけですな」
「小學校の成績なんか、わりにいいものがなるやうでございます。僻んだり、捨鉢になつたりしなければよろしいんですけれど……」
「若いお醫者さんと一緒に仕事をしてゐて、そんなに間違ひはないもんですか?」
「さあ、世間ではさういふ風にごらんになるやうですけれど、あたくしの經験では……」
「いや、あなたの經験を伺つてるんぢやありませんよ、一般のことを知りたいんです」
「えゝ、それが、一般に、そんなもんぢやないと、あたくしは思ふんですけれど……。お醫者さまの裏表をすつかり見てしまふと、あんまり興味がもてないいぢやございませんか知ら……」
「ふん、さういふこともわかりますね。しかし、かういふ病院なんかではどうなんです、或る先生が、ある看護婦さんを特別に可愛がるつていふやうな問題は? 現にさういふ事實があるか知らないけれど、あつたとしたら、相當うるさいでせうね」
「ご想像に委せますわ」
意味ありげな笑ひを浮かべて、彼女は横を向いた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月4日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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