【原文】第15話 未知の世界(六)
病院はまだひつそりとしてゐた。
下足番の退屈さうな顔が、彼を見あげたゞけで、別にこれといふ敬意も拂わず、こつちが差出す足へ、形式的にカヴァーをかぶせ、ひとつ不景氣な嚔をした。
事務室も藥局も窓が閉まつてゐる。
「お早うございます」
入院係の女事務員が黒い上つ張りに袖を通しながら腰をかゞめた。
「お早う。糸田君はもう來てゐますか?」
「さあ、まだでせうと思ひますが……」
「來たらすぐに僕の部屋に來るやうに云つてくれたまへ」
彼は昨夜のうちに待合室のひとつを模様がへさせて、ともかく主事専用の部屋にした。
玄關の突き當りが事務室、その左手が扉で事務長室に續いてゐ、事務室の右が藥局で、その隣がさうなのである。
彼は眞新しいデスクの前に坐つて、女給仕の差出す茶を啜った。
――さあ、なにから手をつけてやらうか?
病院の經済状態は案外惡くないのだから、こいつを志摩一家の財政から切り離すことが急務だと、彼は考へた。
志摩家の財産は、動産不動産と合して約二百五十萬と見積もれば、借金の額とほゞ同額になる。北海道と静岡に相當の土地があり、本宅の外に別荘だけでも五ケ所に持つてゐて、それが何れも二番三番の抵當にはひつたまゝ、利息も最近ではろくに拂つてないといふ有様を知つて、彼もちよつと辟易したが、志摩泰英といふ名前がまだ物を言ふうちは、いくらか芝居が打てはしまいかと、あつさりこの難事業を引受けてしまつたのである。
なにしろ、病院からあがる収入は、この二三年、多少減じ氣味ではあるが、それでもなほ昨年末の計算では、一年に九萬圓を下らないといふ成績である。東京屈指の大病院として、まだ堂々たる貫禄を示してゐると云はねばならぬ。
が、こゝにひとつ、警戒すべき現象が起りつつあることを、院長は自らそれとなく語りもしたが、また、事務長の言葉のはしばしでも察することができた。
それはつまり、志摩博士の診察時間といふのがなくなつてから、内科の患者数が徐々に少くなる傾向を示し、これに反して、皮膚科の評判が俄然高まり、都留博士の人氣は、今や、他の部門の存在を掻き消すばかりになつて來たことである。そのために、皮膚科全體の鼻息が荒く、若い醫者までが肩で風を切つて歩くといふ風が見え、内科などは、博士の顔が五人も揃つてゐながら、何れも腐りきつて、責任のなすひ合ひを始める始末に、部長の金谷博士も、この體面をなんとか取り繕はねばならぬところから、頻に暗躍をはじめたといふ噂は事實らしい。
かういふ消息について、日疋祐三は、もつと深いところに触れたかつた。
扉(ドア)をノツクするものがある。
「はい」
と、彼は、生れてはじめてのやうな返事をした。
はひつて來たのは、昨日たしかに紹介された看護婦長である。
「事務長さんがまだお見えになりませんので、失禮とは存じましたが、直接伺ひます」
「なんですか、ご用は?」
「實は、附添ひの看護婦で、ひとり、昨晩、男の患者さんと一緒に映畫を観に行つたものがございますんが、これは病院の規則で厳重に禁止してございますんです。今まで、こんなことは一度もなかつたもんでございますから、どういたしたらよろしいか、お指圖を仰ぎたいと存じまして……」
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月3日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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