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2013年5月 2日 (木)

【原文】第14話 未知の世界(五)

 翌朝、父の俊六は彼に訊ねた。

「どうだい、病院といふやつは? 見込みがあるかい?」

「なかなか面白いもんですよ。腹を据ゑなくつちや駄目ですね。相手は病人かと思つたら、實は、醫者ですよ。こいつ、首つ玉を押へてかゝからないと仕事になりませんよ」

 祐三はずばりと云つた。

「しかし、お醫者は、普通のサラリマンを扱ふやうには行くまい?」

 兄の計太郎は、この時、重い口を開いた。

「どうしてゞすか? おんなじでせう。つまり、職業として徹底しない一面をもつてるだけですよ。當人たちはそこが強味だと思ひ込んでる。ところが、こつちに云はせると、そこがつけ目ですよ。會社にゐる技師なんかも共通なところをもつてますが、子供みたいな自負心が、結局、先生たちを商賣人と太刀打ちのできない人間にしてますよ」

 さういふ彼を、驚いたといふ風に見直して、

「おい、おい、君はそれで、いつぱし商賣人のつもりかい? 台灣製薬の専務つていふ將來の椅子を恩義のために棒に振る男が、いつたい、算盤を云々する資格があるかねえ」

「はゝ、それやまた別ですよ。明日から食へなくなることがわかつていながら、上役の皮肉ぐらゐに癇癪を起して、インキ壺を投げつける豪傑もゐるんだからなあ。兄さん、もう役所勤めは諦めて、商賣の方へ轉向しませんか? 僕がやめたあとならいゝでせう、台灣製薬でも……?」

「いやだよ。病院の事務員なんか、なほさらごめんだ」

「誰も、そんなこと云つてやしないぢやありませんか」

「いゝや、それや、わしが云つたんぢや、病院の事務の方に何か口がありやせんかつて……」

 父が獨り言のやうに答へた。

「祐さん、誰がなんて云つたつて駄目なのよ、この人は……。やつぱり内務省が好きなのよ。世界で一番立派なお役所だと思つてるんですもの」

 嫂の眞砂子は、夫の胸の底を容赦なく暴いて、淋しく微笑んだ。

「そりや、地方行政といふもんは、云ふに云はれん面白味のあるもんぢや」

 嘗ての縣書記官は、憮然として呟いた。

 やがて、祐三は、席を起つて洋服に着かへた。嫂は甲斐々々しくそれを手傳つた。

「いゝですよ、嫂さん、ほつといて下さいよ。だが、惡くはないな、そばからかうしてつぎゝに取つてもらふのは……。これだつて、上手下手はあるでせう、どこの細君も嫂さんなみといふわけにやいかんでせう?」

「あら、あたしそんなに上手かしら……? 兄さんには、毎朝一度ずつ怒鳴られるわ」

「兄貴の怒鳴るのは癖ですよ。ねえ、兄さん、覺えてる? 小學校を卒業する時だつたかなあ、ほら、式があつてさ、担任の先生が優等の名前を呼んだでせう。兄さんの名前を呼ぶかと思つたら、たうたう呼ばなかつたね、そしたら、變な時に、兄さんが、『ウオーツ』つて怒鳴つたぢやないか。はゝゝゝ、びつくりしたよ、僕あ……」

「さうさう、聞いた、聞いた、その話は……」

 母のよね子が、玄關で靴の埃を拂ひながら、頓狂な聲を立てた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年5月2日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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