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2013年4月20日 (土)

【原文】第2話 志摩家の人々(二)

「まあ」と云つたきり、啓子は、眼を見はつた。が、それきり、石渡ぎんの姿は、右往左往するほかの看護婦たちの白衣のなかへ消えてしまつた。

「では、また明日、傷の經過を拝見しませう。少しいぢり過ぎましたから……」

 笹島醫學士の聲でわれに返ると、啓子は思ひだしたやうに、

「どうもありがたうございました」

 と腰をかゝ〃め、歸る支度をした。

「お大事に……。ぢや、お送りしません」

「院長によろしく……」

などといふ一人一人の挨拶をうしろに、手術室の外へ出ると、彼女は、急に、頭がふらふらッとして、廊下の壁に手を支へた。さつきの、あの眼の眩むやうな痛さをたゝ〃思ひ出しただけである。随分、我慢はよかつたつもりだ。あれでいくらか顔をしかめただらうか? もう誰も見てゐないと思ふから、彼女は、繃帯をした指を頬でやはらかくこすり、

「可哀さうに、可哀さうに」

と、心の中で云つた。可笑しなことに、眼頭に涙がにじんで來た。

 この時、不意に、後ろで足音がした。振り返ると、石渡ぎんが泳ぐやうな手つきで走つて來る。

「ごめんなさい。あたし、まごまごしちやつて……。でも、こゝの養成所へはひる時から、この病院の院長さんが、あなたのお父様だつてことは知つてましたのよ。いつになつたら、あなたにわかるか知らと思つてたの。今日だつて、あたしが黙つてれば、あなたご存じなかつたわね」

「あたし、この病院へは滅多に來ないから……」

「それに、看護婦の名前なんぞ、お聞きになることはないから……」

 さうでもないわ、と、云はうとして、彼女は黙つて歩き出した。

 長い廊下の窓からは、うらゝかな午後の陽が射し込んでゐた。

 昨夜の嵐がそこ此処に吹き溜めたらしい櫻の花びらを、また舞ひあがらせる風もなく、病棟を隔てる中庭の芝生には、鳩が二三羽餌をあさつてゐる。産科の病室から、赤ん坊の泣き聲が聞こえて來ても、今日はなんとなく明るく澄んでゐた。

 石渡ぎんは、小柄な、しまつた肉附の、北國の血をひいた、肌のあくまでも白い、顔だちは整つてゐるといふよりも、寧ろ、一つ二つの缺点が魅力になつてゐるといふ類の娘であつた。

「あなた、ずつと外科の方?」

「えゝ、今はさういふことになつてますの。だから、あなたにお目にかゝれたんだと思ふと、うれしいわ、あたし」

 つい、昔のやうな口の利き方になる。それをどつちも氣にとめず、玄關へ差しかゝると、そこには、事務長の糸田が慇懃に頭をさげてゐた。

「如何でいらつしやいます? 危うございましたな。いや、あのミシンといふやつは、そばで見てゐても冷やひやいたしますよ。あ、お車をお呼びいたしませうか?」

「いゝんですよ」
 啓子は顔を直すと、さつさと靴を穿いた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月20日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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