【原文】第2話 志摩家の人々(二)
「まあ」と云つたきり、啓子は、眼を見はつた。が、それきり、石渡ぎんの姿は、右往左往するほかの看護婦たちの白衣のなかへ消えてしまつた。
「では、また明日、傷の經過を拝見しませう。少しいぢり過ぎましたから……」
笹島醫學士の聲でわれに返ると、啓子は思ひだしたやうに、
「どうもありがたうございました」
と腰をかゝ〃め、歸る支度をした。
「お大事に……。ぢや、お送りしません」
「院長によろしく……」
などといふ一人一人の挨拶をうしろに、手術室の外へ出ると、彼女は、急に、頭がふらふらッとして、廊下の壁に手を支へた。さつきの、あの眼の眩むやうな痛さをたゝ〃思ひ出しただけである。随分、我慢はよかつたつもりだ。あれでいくらか顔をしかめただらうか? もう誰も見てゐないと思ふから、彼女は、繃帯をした指を頬でやはらかくこすり、
「可哀さうに、可哀さうに」
と、心の中で云つた。可笑しなことに、眼頭に涙がにじんで來た。
この時、不意に、後ろで足音がした。振り返ると、石渡ぎんが泳ぐやうな手つきで走つて來る。
「ごめんなさい。あたし、まごまごしちやつて……。でも、こゝの養成所へはひる時から、この病院の院長さんが、あなたのお父様だつてことは知つてましたのよ。いつになつたら、あなたにわかるか知らと思つてたの。今日だつて、あたしが黙つてれば、あなたご存じなかつたわね」
「あたし、この病院へは滅多に來ないから……」
「それに、看護婦の名前なんぞ、お聞きになることはないから……」
さうでもないわ、と、云はうとして、彼女は黙つて歩き出した。
長い廊下の窓からは、うらゝかな午後の陽が射し込んでゐた。
昨夜の嵐がそこ此処に吹き溜めたらしい櫻の花びらを、また舞ひあがらせる風もなく、病棟を隔てる中庭の芝生には、鳩が二三羽餌をあさつてゐる。産科の病室から、赤ん坊の泣き聲が聞こえて來ても、今日はなんとなく明るく澄んでゐた。
石渡ぎんは、小柄な、しまつた肉附の、北國の血をひいた、肌のあくまでも白い、顔だちは整つてゐるといふよりも、寧ろ、一つ二つの缺点が魅力になつてゐるといふ類の娘であつた。
「あなた、ずつと外科の方?」
「えゝ、今はさういふことになつてますの。だから、あなたにお目にかゝれたんだと思ふと、うれしいわ、あたし」
つい、昔のやうな口の利き方になる。それをどつちも氣にとめず、玄關へ差しかゝると、そこには、事務長の糸田が慇懃に頭をさげてゐた。
「如何でいらつしやいます? 危うございましたな。いや、あのミシンといふやつは、そばで見てゐても冷やひやいたしますよ。あ、お車をお呼びいたしませうか?」
「いゝんですよ」
啓子は顔を直すと、さつさと靴を穿いた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月20日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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