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2013年4月

2013年4月30日 (火)

【原文】第12話 未知の世界(三)

 日疋祐三は、いま、その時の志摩博士の顔つきを想ひ出してゐる。老科學者風の冷厳さは消えて、なにか氣魄の衰えのやうなもの、自ら膝を屈する脆さをありありと示してゐた。

 彼は、即答を興へず、ひと晩、考へぬいた。翌朝、晴ればれと決心の臍をきめ、これまで築きあげた地位を惜しげもなく捨てたのである。

 恩義に報いるといふ氣持が全然ないではないが、それよりも、所謂、男子意氣に感ずといふところの方が強かつた。しかし、博士の云つた通り、仕事の面白味は、なんとしても、大會社の庶務課長より、小さくとも獨立した事業を一人で切り廻すことにあると思つたのが、むしろ第一に彼の決心を早めさせた原因なのである。

「では、醫局の方はみなさんお揃ひになつたさうですから……」

 糸田事務長の知らせで、彼は起ち上つた。

 思つたより廣い部屋であつた。両側にデスクが並んでゐた。

 彼がはひつて行くと、各部長がひと塊になつて彼を迎へ、中でも、内科部長の金谷博士は、いかにも舊知のやうな打ち融けた調子で、

「どうもご苦労さま……。大體様子がおわかりになりましたか? では、醫局員にご紹介いたしませう。諸君、ちよつと起つてくれたまへ。」

 ぞろぞろと椅子を離れて、いろいろの顔がこつちを向く、なかには明かに無關心を装ふ顔がみえる。

「ぢや、僕から簡単に……」

 さう云つて、金谷博士は日疋の方を顧み、

「かねてお聞き及びのことゝ思ふが、今度、院長の特別なお眼鏡で、こゝにをられる日疋祐三とおつしやる方は、この病院の主事としてご勤務下さることになりました。先刻ご承知のとほり、院長は久しく健康が勝れられないために、別荘で静養をつゞけてをられるのだが、これは、病院の信用上、かつ統制上、甚だ憂慮すべき状態と云はんけりやならんのであるて、われわれとしても、内外の事情に照らし、この缺陥を補うために、あらゆる處置を講ずる必要を感じてゐる次第なんであるが、幸ひ、内部的に、院長事務代理とも云ふべき地位と人物とを得たことは、今後、組織の運轉を一層圓滑ならしめるものとして、大いに期待をもつところであります。」

 ここで、突然調子を張り、

「もちろん専門の領域において技術家たるわれわれの職分は何等之によつて影響を受けるものではない。さきほど、院長代理といふやうな言葉を使ひましたが、これは、内科臨床醫學の大先輩志摩博士に代るものといふ意味では毛頭なく、単に、志摩病院の院主、即ち一個の經営者たる志摩泰英を代表するに過ぎないのだといふことを、諸君は銘記されたい。その意味に於いて、われわれは、日疋君に全幅の信頼と同情を惜しまないものであります。」

 拍手をするものが二三人あつた。

 日疋祐三は、この瞬間に、醫局内の空氣なるものを直感した。

 彼はやゝあつて、徐ろに口を開いた。

「只今の金谷博士のご紹介のお言葉は、その過分のご期待を除いては、私の云はんとするところを盡してゐると思ひます。ごらんの通り、私は、一介の書生で、まだ大した事業の經験もなく、人心の機微にも甚だ疎いのであります。殊に、醫學なるものゝ片鱗をも辨へず、病院といふものゝ門を潜つた記憶もない次第で、云はゞ、今日突然、見知らぬ世界に迷ひ込んだわけです。果たして、私のやうな人間の通れる道があるかどうか、諸先生の好意あるお手引きに頼る外、一歩を踏み出すことさへ困難なのを感じます。」

 彼は部屋の隅々を、ぢつと眺めまはした。咳拂ひひとつ聞こえない。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月30日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2013年4月29日 (月)

【原文】第11話 未知の世界(二)

 寄宿と並んで小さなコンクリートの建物があつた。

「屍室です」

 と糸田は、その前で立ち止まつた。

「これだけで足りますか?」

 日疋は訊ねた。

「なんとか間に合つてるやうですな。亡くなつた患者は、その日に運び出すのが原則ですから……」

「毎日どのくらゐ死にますか…」

「さあ、そいつは、時によつて大變違ひますが、多い時には五六人もあることがあります。一人もない日が三日續くことは珍しいでせう」

「入院患者の数が、いま幾人でしたつけ?」

「えゝ、只今のところ、三百五十六人……昨夜の調べです」

 建物と建物との間の、じめじめした通路から洗濯物がいつぱい干してある空地が見える。その向ふは鐵柵を隔てゝ往來になつている。

「これでひと通り廻つたわけですね」

「いや、あとにまだ隔離室と、最近建増しをした實費患者の病棟がありますが、これはこの次ぎといふことに致しませうか……では、こちらからどうぞ……」

 スリツパの泥をばたばたと拂つて、糸田は暗い廊下の方へあがつて行つた。

 あとは醫局へ挨拶をすることだけが殘っている。志摩院長の紹介をもらつて各部長だけは自宅を訪ねてあるのだから、醫局員への紹介はそのうちの誰かゞやつてくれるだらう。これは昼休みの時間を利用することにしてある。

 日疋祐三は、ひと先づ事務長室を引あげて、煙草を喫つた。

 彼は今年とつて三十三である。父は退職官吏であるが、よくあることで、ボロ會社のかぶをつかまされて丸裸になり、當時中學生であつた彼が、學校を中途で止めねばならぬ羽目に立ち至つた時、同郷の友、志摩泰英に縋つて、若干の生活費と息子の学費を貢いでもらふことになつた。この補助は、彼が小樽高商を卒業し、やがてこれも志摩博士の世話で台湾の製薬會社へ勤めるやうになるまで續いたのである。

 ところが、就職後、彼は重役の覚えめでたく、とんとん拍子に出世をした。去年の秋、庶務課長の辞令を受け取つて、久々で父母の膝下を訪れた時、序に志摩博士にも敬意を表しに行つた。

 博士の頭に、強く彼の人物を印象づけたのは、抑もかういふ機會だつたに違ひない。

「オリイツテソウダンシタシ シキフジヨウキヨウコフ」

 この電報が彼をこのたび東京へ呼び寄せたのである。

 博士は率直に彼の財政が危機に瀕してゐることを訴へ、病身の自分を援けて、事業の管理に當つてくれないかといふ相談をもちかけた。

「その方面の専門家に依頼する手もないではないが、こいつは、僕としては本意でない。もう時機が遅いのだ。技術よりも誠意、いや熱情がすべてを解決するのではないかと思ふ。但し、これだけははつきりさせておきたいが、僕は嘗て君の世話をしたからといふんで、こんなことを無理に押しつける氣は毛頭ない。殊に、君は洋々たる前途をもつてゐる。それを見棄てゝ一私人のけちな事業なんかに係り合ふのは、或は犠牲が大きすぎるかも知れん。それもよくわかる。が、仕事の面白味は、その仕事の大小に比例しはせんからな」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月29日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2013年4月28日 (日)

【原文】第10話 未知の世界(一)

 事務長の糸田は、今度新しく主事といふ資格で病院へ乗り込んで來た日疋祐三なる人物を、まだどう扱つていゝかわからなかつた。

 院長からは、すべて病院のことは彼の指圖に從へと云はれてゐるのだが、それほどの信任を受ける何ものかゞ、この男にあるのであらうか?

「えゝと、こゝが禜養食調理場になつてゐます。患者の希望と、主治醫の命令によりまして、前日傳票を切るやうにしてあります。一日三食一圓、八十錢、六十錢とかう三種類に分けてありますが、大體、材料費は三分の一であげるやうにしてゐます。さうでしたね、奥野さん」

「でも、ちよつとそれぢやむつかしうございますわ」

 瓦斯で揚げものをこしらへてゐた主任は、この参観人の素性を知らず、さう答えた。

「あ、この方が、今度病院の主事になられた日疋さん、院長の代理として來られたんだから、そのおつもりで……。こちらは、禜養食の主任さんで奥野さんとおつしやいます。女子大を卒業されて、その道の研究をなすつた方です」

「よろしく……」

 と、奥野女史は、羞みながら、會釋をした。厳めしいロイド眼鏡はかけてゐるが、まだ二十五にはなるまいと思はれる年恰好である。

 日疋祐三は、さつきから病院のなかを案内させながら、この雑多な組織をひと通り呑み込むだけでも容易ではないと考へてゐた。

 調理室を出ると、糸田は、また階段を上りかけた。

「おや、まだ上になにかあるんですか?」

「いや、この上は屋上です。見晴しがいゝですよ」

「景色の方はまた今度にしませう。それより、看護婦さんの寄宿は?」

「それを先づ、屋上から見ていただかうと思つたんですが、それぢや、ぢかに参りませうか」

 別棟になつた木造三階建の入口に「白鶯寮」と書いた大きな札がかゝつてゐる。

「この名前は誰がつけたんですか?」

「内科部長の金谷博士でしたかな。以前、養成所の所長をなすつていらしつた時分だと思ひます。白はつまり看護婦の服ですな。鶯は例の……」

「ナイチンゲールですか」

と、日疋は、苦笑した。

「男子の訪問は一切禁制といふことにしてあります」

 ひと部屋ひと部屋をのぞきながら、糸田は自分でも珍しさうにしてゐる。

「八畳ですね。ひと部屋に何人いれるんです」

「別に定員といふものはきめてありませんが、大體、平均して十五六人になりませうか。といふと無理なやうですが、實際、夜分、ここで寝るのはその半分といふ割でせう。患者の附添と看護室の不寝番がありますから……」

「いつか、何處かの病院で、看護婦が待遇改善の運動をしたつていふ新聞をみた覚えはありますが……」

「いや、こゝでは、そんなことは絶對にありません。院長の御子息が洋行から歸つて來られると、まつさきに、看護婦の優遇方法を考へられましてな。いまお目にかけますが、ちやんと娯楽室の設備もできましたし、ほかの病院に率先して公休日も作りましたし……」

 ふと、首をつつ込んだ部屋に、日疋祐三は、夜具も敷かず、正體なく寝崩れてゐる一團の女の姿をみた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月28日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2013年4月27日 (土)

【原文】第9話 志摩家の人々(九)

 夕食の支度ができ、瀧子は時計と睨めつくらをしてゐる。

 六時になり、七時になつても、泰彦夫婦はやつて來ない。

 啓子は腹をぺこぺこに空かして、紅茶ばかりがぶがぶ飲んでゐる。

 父の泰英は、たうとう居眠りをしはじめた。

 七時半まで待つことになつた。

 と、やがて、表で自動車が止る音がし、瀧子と啓子が玄關へ飛びだすと、車が違つてゐる。おやと思ふ間もなく、降りて来たのは、嫂の三喜枝一人であつた。

「どうもすみません。遅くなつちやつて……。ホテルを出ようとした時、維納時代のお友達にひよつくり會つたもんだから……。泰彦さんは、明日の午後までゐるつもりなんですの。それぢやこちらに悪いからるて、あたし一人で伺つたんですのよ。ごめんなさいね。大船から変な暗い道へ迷ひ込んぢやつて……あゝ、心配した」

 頸に巻いた黄のスカーフを大袈裟な手つきでほどくと、もう靴を脱いで上へあがつてゐた。

 瘠せぎすの、どこか病的な鋭さと子供のやうな単純さとを同時にもつた、全體の容姿挙動がなんとなく尋常でないところのある女である。

「そんなことなら、わざわざあなた一人で來なくつても、電話をかけてくれなさりやよかつたのに……」

 瀧子は、さう云ひながら奥へ引つ込んだ。

「啓子さん、あんた、何時から來てんの、ひどいわ、黙つて……」

 三喜枝は啓子の肩へおぶさるやうな科で、ぐんぐん後ろから押して行つた。

 泰英は申訳のように食卓についた。

 八畳の茶の間である。

 啓子は父と向ひあひ、三喜枝は瀧子と向ひ合つてゐた。

「二人ともそんなに黙つてないで、お父さまになんかお話をしてあげて頂戴よ。退屈してらつしやるんだから……」

「ちよつと待つて……いま大急ぎでこれだけ食べちまふから……」

 啓子は伊勢蝦の肉を剥がすのに夢中である。

「わしは、ちつとも退屈なんかしとりやせんよ。それより、今日は好い機會だから、みんなに云つとくが……志摩一家もこれまではまづ順調な道を歩いて来た。しかし明日はどうなるかわからんよ。わしのからだも何時までといふ保證はできんし、財産もいろんな事情で一切人手に渡るやうなことがあるかも知れん。もちろん、わしの生きてゐる間は、みんなが食ふに困るやうな状態にはせんつもりだが、少くとも、すべての點で、贅澤は禁止だ。今からその覚悟をしてもらはにやならん。泰彦には、三喜さんからよく話しといてくれ。具體的なことは追つてきめるから、文句の出んやうにしてほしい」

 女三人は、呼吸を殺して、聴いてゐた。

 瀧子が先づ口を開いた。

「病院の方が思わしくないんですの?」

「それもある。が、それだけぢやない。病院は、わしが出て行きさへすれやいゝんだが……」

 啓子は、その言葉を自分だけに通じる言葉として、ひそかに同感した。看護婦の石渡ぎんが自分に云つたことは、やはり事實だつたのだ。

 縁の硝子戸を透して、遠くの海がキラキラ光つてゐた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月27日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2013年4月26日 (金)

【原文】第8話 志摩家の人々(八)

 啓子が母の瀧子になにか目くばせをした。――いゝのよ、お父さまに喋らしておおきなさいよ。といふ眼つきであつた。

 瀧子も心得顔に笑ひを噛み殺してゐる。

「ぢや、啓子、お母さんの前ではつきり返事をしなさい。これと思ふ人物があつたら、明日にでもお嫁に行くつて……」

「…………」

 啓子は、探るやうな眼つきで、ぢつと父の顔を見つめてゐる。

「どうだ、おい……」

「お父さまがこれとお思ひになる人物は、名門出の秀才なんでせう」

「いや、さうとは限らん。お前がこれと思ふ人物でもかまはんよ。あんまり素性の惡いのは困るが……。大體の撰擇はお前に委せる。たゞいつかみたいに、相手をろくにきゝもしないで、まだ時期が早すぎるとか、結婚つてものはなんだかおそろしいとか、つまらん理由で話をぶちこはしてしまつちや困るからな。もうそんなことはないね」

 父のいふことは尤もであつた。が、彼女としては、ちつとも結婚を急いでゐないことも事實である。現在の境遇は誰にくらべても滿ち足りたものであつたし、月並な戀愛が處女時代の夢を汚すやうに、型通りの結婚が、どつちみち得るものに比して失ふものが多いといふことを、彼女は何時からか信じるやうになつてゐた。

「今急にどうかうと望むわけぢやないが、とにかく、眞面目に考へてみることにしようよ。問題をとりあげてだよ。それだけ約束するね」

 かう眞正面から嘆願するやうに出られては、彼女としてもいやとは云へず、母の方へちらりと笑つてみせたうへ、

「えゝ」

 と返事をした。

「よし、それだけ聞いておけば安心だ。お母さん、今晩は啓坊にご馳走してやつてくれ給へ。あ、それからな、忘れんうちに云つとくが、明日、病院へ電話をかけてね、糸田にこの間命じた書類を早く作つて持つて來いつて……」

 その時、女中が、はひつて来た。

「奥さま、只今若旦那さまからお電話でございまして、伊東からお歸りにこちらへお寄りになるさうでございます。ご夕食を召上るさうでございますが、どういたしませう?」

「あら、困つたね」

 と、うつかり云つて、瀧子は、

「困りもしないか。ぢや、豫定を少し變へよう。蝦はまだあつたらう?」

「はあ、まだ大きいのが三疋も残つてをります」

「ぢや、あたし、今すぐ行くから……。お嫂さまも一緒ね、たしか……」

 と啓子を振り返つた。

「昨日から泊りがけでゴルフなのよ。ドライヴに誘はれたんだけど、あたし行かなかつた、さうさう、歸りがけにでもお見舞をしなけりやつて、お嫂さま、云つてらしつたわ」

「さうよ、もう一と月、顔を見せないんだもの、あの人たち……」

 泰英は、この話には口を挟まうとしない。彼の後繼者は、父博士の望む學校にはひれず、某醫専をやつと卒業してすぐに維納に留学にやらされたのだが、金をかけた論文が遂に今もつて何處をも通過せず、病院の整形外科に醫局員として籍を置いてゐるだけで、醫者は性に合はんと、公然、誰にでも吹聴して歩いてゐる。その代り、自動車の運轉はもちろん、ダンスと寫眞は玄人の域に達してゐるとの評判である。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月26日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2013年4月25日 (木)

【原文】第7話 志摩家の人々(七)

「お父さま、なにか心配ごとがおありになるんぢやない?」

 啓子はおそるおそる訊ねた。

「そんな顔をしてるかい? お前の眼がどうかしてるんだ。眩しいから、あの窓のカーテンを引いてくれ」

 西日の差込んでゐる小窓を頤でさす父の顔はもう笑つてはゐなかつた。

「指をどうしたんだ」

「うゝん、ちよつと針でつつ突いただけよ。それより、お父さまのご病氣、近頃はどうなの? なんにもおつしやらないから、いゝんだかわるいんだか、さつぱりわからないぢやないの?」

 カーテンを閉めをはると、啓子は、さう云ひながら、父の傍らに腰をおろした。

「病氣の經過なんていふものは素人に話したつてわかりやせんよ。氣分がいゝとか悪いとかは、これは必ずしも病氣と直接の關係はないんだからね。苦しみながら何時までも生きてる奴がゐるし、死ぬ前まで平氣でゐるのもあるし、どつちみち、病氣なんてものは、ひとりでになほればなほるんだ」

「あら、それぢやお醫者さんの必嬰ないぢやないの。ご自分がお醫者のくせにあんなことおつしやつて……」

「おい、それより、お前もそろそろ嫁に行かんか」

 この話は、これで二度目である。一度は母のゐるところで、豫てしめし合わせてあつたらしく、先づ父から切り出したのであつた。その時は、たゞ、「もう少しいろんなことを勉強して」と、たゞそれだけを口實にきつぱり断つたのである。相手はなんでも陸軍大将の息子とかで、大會社の外國支店詰をしてゐる青年であつた。

「お嫁につて、どこへ?」

「どこでもいゝ、適當なところへさ。候補者はいくらでもあるぞ。うん、お前にその氣があるなら、お母さんを此處へ呼んで一緒に相談しよう」

 母の瀧子は、はいつて來ると、二人の顔を見比べながら、

「なんだ、啓子さん、あんたここにゐたの? どこへ行つたのかと思つた。お呼びにならなかつた?」

「呼んだよ。啓子がお嫁に行くつていふから……」

「まあ、うそばつかり……お嫁に行くなんて云やしないわ。お父さまが行かないかつておつしやつただけぢやないの」

「さうしたら、何處へつて訊いたぢやないか。相手次第では行くつてことだ」

「あら、それだけのお話? それで、あたくしのご用は?」

 と瀧子も、夫のご機嫌につり込まれて、膝を乗り出すやうに椅子を引き寄せた。

 地味なつくりではあるが、これで夫の泰英とは二十違ひの四十五、もちろん後添へとして、長女啓子を産んだ時は、先妻の残した長男の泰彦は、もう小學校を卒業する眞際であつた。夫の、どちらかといへば事業家肌の、内外ともに派手に振舞ふたちにも拘らず、彼女は、人並すぐれた才氣をもちながら、主義として慎ましく家庭を守りつゞけ、その意味で、まつたく世間を見ずにしまつたといふところのある女であつた。

「だからさ、君はそこにゐて二人の話を聴いてゐ給へ。あとで證人がいるかも知れんからな」

 泰英は、いつになく、はしやいでゐる。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月25日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2013年4月24日 (水)

【原文】第6話 志摩家の人々(六)

「もう長くゐるの、お客さま?」

「えゝ、かれこれ二時間になるわ、なんだか込み入つたお話らしいから……」

「あたしの知らない人?」

「知つてるでせう、日疋さんさ」

「日疋さんて、二人ゐるじゃないの」

「息子さんの方さ」

「兵隊に行ってた人ね、いつかお正月に來て歌を唱つた……」

「あゝ、そんなことがあつたつけね。四五年會はないうちに、すつかり紳士らしくなつて……」

「今、なにしてるの、あの人?」

「なにしてるつて、お父さまのお世話で、台湾のなんとかいふ會社へはいつたことは知つてるけど……。休暇で歸つて來たのかも知れないわ」

「あゝいふ人、随分ゐるんでせう、お父さまに學費を出していただいて勉強したつていふやうな人……」

「ゐるらしいね、いちいちはおつしやらないけど……。うちの病院にだつて、さういふ人は随分ゐる筈よ。お父さまはそれを先輩の義務だと思つてらつしやるし、世話になつた人は、それを當然の権利だぐらゐに思つてるんだから、世の中は面白いもんね」

 この時、離れのベルが鳴つたので、母は座をたつた。

 客が歸るのである。

 啓子は、茶の間からそつと、廊下を通るその客の姿を一瞥した。

 五分刈の頭が、やゝ猫背でいかついた肩の上につき、だぶだぶの洋服を無造作に着こなした恰好は、さつきの「紳士」といふ言葉からは大分遠いやうに思はれたが、玄關まで送って出た母へ、二言三言、挨拶を述べてゐる、その調子がなんとなく重厚な感じを與へ、飾り氣のない人柄を想像させた。

 啓子は、その間に、父の居間をのぞきに行つた。

「おお、來とつたのか。長く話をしたら、少し疲れた。ちよつと、そのテーブルの上のものを片づけてくれ。みんな金庫へしまふんだ」

 テーブルの上には、同じ型の帳簿のやうなものが堆高く積まれてゐた。

「今の男、知つとるかい」

「日疋さんでせう」

「あとでお母さんにも話すが、あの男を今度おれの秘書にしようと思つてな。台湾からわざわざ呼び寄せたんだが、なかなかうんと云ひよらん」

「お父さまの秘書ぐらゐ、あたしで勤まらない?」

「ぐらゐとはなんだ。これでも、天下の志摩泰英だぞ。本來ならかうして寝てはをれんのだ。からだはいくつあつても足らん。病院の仕事だけでも、委しておける奴がをらんぢやないか」

 父が、自分の仕事のことで、こんな風な口の利きかたをしたことは、かつて彼女の記憶になかつた。明かに異常とも思はれる興奮のあとがみえた。

 啓子は、そつと父のそばへ寄つて行つた。彼は、寝椅子の上にぐつたりと横になり、強ひて笑顔を作らうとしてゐた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月24日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2013年4月23日 (火)

【原文】第5話 志摩家の人々(五)

 別荘は藤澤からバスでいくらもない鎌倉山の、新しく松林を切り開いた眺めのいゝ丘の上に建つてゐた。純日本風の母屋と、離れの洋館とが渡り廊下で繋がり、啓子の父、志摩泰英は、おほかた離れた方にゐつきりで、まだ寝つくほどではないが、近頃は散歩の度数もだんゝ減らしてゐる。

 實をいふと、彼は、自分でももう胃癌の兆候を發見し、それを誰にも云はないでゐるだけであつた。

 時々、病院の醫者たちが見舞に來るには來るが、別に脈を取るでもなく、「僕のからだは僕が一番よく知つとる」と云はれ、苦笑しながら引き退るやうな始末である。

 彼は、かうして、刻々に死の近づくのを待つてゐた。

 啓子は、母の顔をみると、いきなり

「お客さま?」

 と訊ねた。玄關に靴が揃へてあつたからである。

「どうしたの、その手は?」

 母の瀧子は、逆にきめつけた。

「これ? 怪我よ。」

「怪我はわかつてるわ。なにいたづらしたの?」

「あら、ミシンを使ふのがいたづらなの。へえ、はじめて知つたわ」

 啓子は、まづ相手をぢらすのである。

「ミシンで指を縫うひとがありますか。みせてごらんなさい」

「見たつてわかりやしないわ。もう、針は抜いちやつたのよ」

 母がきよとんとしてゐるので、

「針が拇指へ突き刺さつたのよ」

「そんなら、あんた、大變ぢやないの」

「さうよ、大變よ。だから、病院で大手術を受けて來たわ」

「當り前に話をしたらどう? そんなに、大袈裟に云はないで……」

「大袈裟になんか云つてやしないわ。とにかく、綾部さんの赤ちやんに着せてあげようと思つて、素敵な型のベビイ服を考案したのよ。だつて、出來合はろくなもんないんですもの。それを今日學校から歸つて縫ひはじめたの。ミシンの工合が、どうも變なのよ。いよいよ襟をつける時だつたわ。ぐいと電流を入れた途端に、指がすべつたのね、それこそ、からだぢゆうがぢいんとして、何事が起つたかと思つたわ。左手の拇指がもうしびれて動かなくなつてるの。でも、アツとかなんとか聲を出したんでせう。君やが駈つけて來て指を外してくれたの。ところが、刺さつた針が途中から折れて、尖端の方が裏つ側へ出てるんだけど、引つぱつてもなかゝ抜けないの」

 母は、そこで思ひきり顔をしかめ、眉をすぼめて身顫ひをした。

 啓子は、すべてが思つた通りになるので、さも満足したといふやうに、ひと息ついた。

「田所さんに、見ていたゞいたの?」

「部長さんは手術で手が放せないんですつて……。なんとかいふ若いひとがやつてくれたわ。あぶなつかしいの」

「誰だらう? 丈の高い人かい? ちょつとスマートな……」

「香水のにほひ、ぷんゝさせてたわ」

「あゝ、ぢや、笹島さんだ。あれで秀才だよ、あんた……」

 啓子は、笹島醫學士のことにはあんまり興味はなかつた。それより早く父のそばへ行きたいのだが、お客はいつたい誰なのか?

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月23日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
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2013年4月22日 (月)

【原文】第4話 志摩家の人々(四)

 啓子は、うなづいてみせた。石渡ぎんの口から、さあ、どんな不平が飛び出すかと思ふと、ひどく好奇心さへ湧いて來て、促すやうに歩をゆるめた。

「改まつて人の惡口を云ふのはむずかしいな。」

 と、しばらく考へるやうに首を傾げてゐたが、やがて、

「あたしが……看護婦のあたしが云ふんだと思はないで聴いてほしいわ」

「だつて、それや無理よ。ぢや、誰が云ふと思つて聴くの?」

「あなたの舊いお友達……」

 ぎんは、わざと澄まして、胸を張つた。

 もう電車道はすぐそこである。話はいつまで續くかわからない。啓子は、別にこれからどうしようといふ當てがあるわけではないが、こんなところで立話もできまいと思ふと、少し困つた。

「あら、もう來ちやつたわ。遅れると大變々々……。ぢやそのお話は、またこのつぎね。明日は繃帯交換にいらつしやるわね」

 さう云つたと思ふと、ぎんは、片手を差出して軽く振り、裾をひるがへしながら、走り去つた。

 この舊友は、かつての學生時代の、あのむつつりしたところがまるでなくなつてゐる。人なかで揉まれ抜いたといふところが見える。それにしても、彼女は病院のことで何をこの自分に云ひたかつたのか、それをすつかり聴かずにしまつたのはなんとしても惜しかつた。普段はまるで自分の生活とは縁のないものゝやうに思つてゐた病院のことが、かうなると妙に氣になりだした。

 父がもう一年近く病氣で鎌倉山の別荘に引込んだきりでゐること本郷の家には兄夫婦がゐるのだがこの兄は、醫者とは名ばかりで、めつたに病院へも顔を出さず、競馬やゴルフに凝つてゐること、それらを思ひ合わせると、日頃、無頓着な啓子の眼にも、志摩病院の将來といふ問題が大きく映つて來た。

 彼女は空車を呼びとめて新橋驛へ走らせた。両親の顔が急に見たくなつたのである。まだ女學校の専攻科へ通つてゐる關係で、土曜の晩以外は本宅の方へ寝泊りをしてゐるのだけれど、どうかすると今日みたいに、ふつと別荘の方へ足が向くのである。

 藤澤までの列車が、いつもよりのろく感じられた。

 母の顔がもう眼にうかぶ。この指の繃帯をみたらなんといふだらう?

 女學校の同級のうちで、一番早くお嫁に行つた友達が、もう赤ん坊を産んだ。お祝ひに手製のベビイ服をやらうと思つて……こんな風に話して行くうちに、母の表情がどう變つて行くか、これはちょっと楽しみだ。

2013年4月21日 (日)

【原文】第3話 志摩家の人々(三)

 石渡ぎんは先廻りをして門のところで待つてゐた。

「電車通りまでお送りするわ」

 啓子は圓タクを拾はうと思つてゐるのだが、折角だからそのへんまで歩くことにした。

「學校おやめになつてから、どうしてらつしやるだらうと思つて……お遊びにいらつしやいよ、時々……」

「そんなことしたら、婦長さんにお目玉だわ。さつき手術室で、あなたに、ほら、お話をしかけたでせう。あゝいふことがいけないの。すぐに生意氣つて云はれるんだから……。でも、近頃、随分平氣になつたわ」

 さう云つて、彼女は、片一方の眉をぐいとあげて笑つた。傲慢でも卑屈でもなく、なにか、自分を知つてゐるといふやうな、聰明な笑ひであつた。

「お別れして何年になるか知ら?」

 と、啓子は、はじめて、しんみりとした。

「あたしが學校やめるとき、あなたにいたゞいた栞、まだ持つてゝよ」

 ぎんは、また昔を思ひだすやうに云つた。

「あら、そんなものあげた? どんなんだか忘れちやつた」

「象牙に彫ものゝしてある、あたしたちには買へないやうな栞よ。いゝ色になつてるわ」

 そんなことを話し合ひながら、二人は坂を下つて行つた。

 病院は小石川の高台にあつた。人通りは殆どなかつた。石渡ぎんは、そこで、やゝ躊ふやうに言葉をついだ。

「ねえ志摩さん……。あたし、やつぱりさう呼ぶわ。お嬢さまなんてをかしいから……。ねえ、志摩さん、今日あなたのお顔みたら、もう黙つてゐられなくなつたの。こんなこと、あなたのお耳に入れる筋合ぢやないかも知れないけど、あの病院のことで、近頃、いろんな噂がたつてゐるのよ。まあ、噂だけならいゝけれど、あたしたちの眼にあまるやうなことが、やけにあるんですもの……。院長先生はお見えにならないし、これでいゝのか知らと思ふと、あたし、仕事も手につかないくらゐよ。それや、自分だけの事なら、病院を出ちまへばいゝんだわ。でも、自分がこれまで勤めて來たところつて云へば、さう簡単には行かないし……。あなたならきつとわかつて下さると思ふの。それに、こんなことを、なんかの序に院長先生に知つていたゞけたら、またどうかなるんぢやないかと思つたりして……」

 啓子は黙つて耳を傾けてゐたが、この時、ふと、今日病院で感じた、どことなく不愉快な印象を、ぎんの話に結びつけて考へてゐた。

「といふと、例へばどういふことなの?」

 對手が話に乗つてくれたので、もう占めたといふ風に、

「ぢや、詳しく聴いて下さる? でも、ちやんと筋道を立てゝお話することなんかできないわ。さういふ種類の事ぢやないから……。まあ、云つてみれば、病院のためにならないやうな事実を、片つぱしから数へあげるだけよ、よくつて」

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月21日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2013年4月20日 (土)

【原文】第2話 志摩家の人々(二)

「まあ」と云つたきり、啓子は、眼を見はつた。が、それきり、石渡ぎんの姿は、右往左往するほかの看護婦たちの白衣のなかへ消えてしまつた。

「では、また明日、傷の經過を拝見しませう。少しいぢり過ぎましたから……」

 笹島醫學士の聲でわれに返ると、啓子は思ひだしたやうに、

「どうもありがたうございました」

 と腰をかゝ〃め、歸る支度をした。

「お大事に……。ぢや、お送りしません」

「院長によろしく……」

などといふ一人一人の挨拶をうしろに、手術室の外へ出ると、彼女は、急に、頭がふらふらッとして、廊下の壁に手を支へた。さつきの、あの眼の眩むやうな痛さをたゝ〃思ひ出しただけである。随分、我慢はよかつたつもりだ。あれでいくらか顔をしかめただらうか? もう誰も見てゐないと思ふから、彼女は、繃帯をした指を頬でやはらかくこすり、

「可哀さうに、可哀さうに」

と、心の中で云つた。可笑しなことに、眼頭に涙がにじんで來た。

 この時、不意に、後ろで足音がした。振り返ると、石渡ぎんが泳ぐやうな手つきで走つて來る。

「ごめんなさい。あたし、まごまごしちやつて……。でも、こゝの養成所へはひる時から、この病院の院長さんが、あなたのお父様だつてことは知つてましたのよ。いつになつたら、あなたにわかるか知らと思つてたの。今日だつて、あたしが黙つてれば、あなたご存じなかつたわね」

「あたし、この病院へは滅多に來ないから……」

「それに、看護婦の名前なんぞ、お聞きになることはないから……」

 さうでもないわ、と、云はうとして、彼女は黙つて歩き出した。

 長い廊下の窓からは、うらゝかな午後の陽が射し込んでゐた。

 昨夜の嵐がそこ此処に吹き溜めたらしい櫻の花びらを、また舞ひあがらせる風もなく、病棟を隔てる中庭の芝生には、鳩が二三羽餌をあさつてゐる。産科の病室から、赤ん坊の泣き聲が聞こえて來ても、今日はなんとなく明るく澄んでゐた。

 石渡ぎんは、小柄な、しまつた肉附の、北國の血をひいた、肌のあくまでも白い、顔だちは整つてゐるといふよりも、寧ろ、一つ二つの缺点が魅力になつてゐるといふ類の娘であつた。

「あなた、ずつと外科の方?」

「えゝ、今はさういふことになつてますの。だから、あなたにお目にかゝれたんだと思ふと、うれしいわ、あたし」

 つい、昔のやうな口の利き方になる。それをどつちも氣にとめず、玄關へ差しかゝると、そこには、事務長の糸田が慇懃に頭をさげてゐた。

「如何でいらつしやいます? 危うございましたな。いや、あのミシンといふやつは、そばで見てゐても冷やひやいたしますよ。あ、お車をお呼びいたしませうか?」

「いゝんですよ」
 啓子は顔を直すと、さつさと靴を穿いた。

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月20日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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2013年4月19日 (金)

【原文】第1話 志摩家の人々(一)

 覗き込んでゐる顔のすべてが、一齊にほつとした表情になつた。

 華車な拇指のさきから、今、抜き取つたばかりのミシン針をピンセツトでつまんだまゝ、若い醫者は、手術着の袖口で額の汗を拭いた。そして、やゝ上眼使ひに、

「痛かつたですか?」

 傷口から眼をそらして、静かに首を振つたのは、格子縞のスーツがぴつたり似合ひ、心もちからだを捻つて、椅子の背へ片肱をかけた姿態が、申分なくあでやかな二十そこそこの娘であつた。

 面長の、どちらかと云へばおとなしい顔だが、翳のない眼の張りと、口元の締り加減に、一種氣位の高さといふやうなものを感じさせ、やゝ浅黒い皮膚が生毛のなかで温かな艶を含んでゐた。

「なかなか強いですね」

 と、醫者は、照れた風でもう一度針を檢めた。

ほかに、見物とも見學ともつかず、同じ手術着を着た醫者が三四人も立會つてゐた。院長のお嬢さんが來たといふので、もう病院ぢゆうは評判であつた。ところで外科部長が生憎大きな手術にかゝつてゐて、代りに誰かゝ〃この令嬢の指からミシン針を抜き取らなければならぬときまつた時、「おれがやる」とその役を買つて出たのが笹島であつた。彼はもちろん、あらゆる點で自信家の定評があるのである。

 針が途中から折れてゐたために、意外に面倒な手術であつた。ピンセツトがなんべんも滑つて、そのたびに彼は舌を鳴らし、いくぶん慌て氣味であつた。

 が、もう、これでいいのである。

 傷口にマーキユロが塗られ、包帯が巻かれた。

 「あんまり手を動かしちやいけませんよ。あゝ、なんだつたら、三角巾で吊つときませうか」

 さう云ひながら、彼は、さも易易と仕事を終つたものゝやうに、口笛を吹きながら、手洗ひの方へ大股に歩いて行つた。

「しばらく休んでらつしやい」

 と、一人の醫者が、お愛想を云つた。これは中年の鼻の頭に膏をためたレントゲン科の主任であつた。

 すると、もう一人の方が、勿軆らしく、

「お父さんのお加減はどうですか? あなたは、やはり別荘の方にいらつしやるんでせう?」

 それがひどく勘に癪る調子なので、志摩啓子は、呆れて、その顔を見なほした。

「どつちつて別にきまつてませんの。その針、いたゝ〃いてつていゝか知ら……」

と、紛らすやうに起ち上つて、彼女は右手をのばし、血のついたガーゼの中から、ミシン針を拾ひあげようとした。

 その時、一人の看護婦が、手早くそいつを乾いたガーゼに包んで、彼女の手に渡し、目立たないほどの會釋といつしよに、

「志摩さん、お久しぶりね……あたし、石渡ぎん、お忘れになつた?」

 服装が変つてゐたので、これがと、しばらくは信じられなかつたが、云はれてみれば、なるほど、それに違ひなかつた。小學から女學校の二年まで同じクラスだつた、あの石渡ぎんなのだ!

 

(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月19日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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