【原文】第9話 志摩家の人々(九)
夕食の支度ができ、瀧子は時計と睨めつくらをしてゐる。
六時になり、七時になつても、泰彦夫婦はやつて來ない。
啓子は腹をぺこぺこに空かして、紅茶ばかりがぶがぶ飲んでゐる。
父の泰英は、たうとう居眠りをしはじめた。
七時半まで待つことになつた。
と、やがて、表で自動車が止る音がし、瀧子と啓子が玄關へ飛びだすと、車が違つてゐる。おやと思ふ間もなく、降りて来たのは、嫂の三喜枝一人であつた。
「どうもすみません。遅くなつちやつて……。ホテルを出ようとした時、維納時代のお友達にひよつくり會つたもんだから……。泰彦さんは、明日の午後までゐるつもりなんですの。それぢやこちらに悪いからるて、あたし一人で伺つたんですのよ。ごめんなさいね。大船から変な暗い道へ迷ひ込んぢやつて……あゝ、心配した」
頸に巻いた黄のスカーフを大袈裟な手つきでほどくと、もう靴を脱いで上へあがつてゐた。
瘠せぎすの、どこか病的な鋭さと子供のやうな単純さとを同時にもつた、全體の容姿挙動がなんとなく尋常でないところのある女である。
「そんなことなら、わざわざあなた一人で來なくつても、電話をかけてくれなさりやよかつたのに……」
瀧子は、さう云ひながら奥へ引つ込んだ。
「啓子さん、あんた、何時から來てんの、ひどいわ、黙つて……」
三喜枝は啓子の肩へおぶさるやうな科で、ぐんぐん後ろから押して行つた。
泰英は申訳のように食卓についた。
八畳の茶の間である。
啓子は父と向ひあひ、三喜枝は瀧子と向ひ合つてゐた。
「二人ともそんなに黙つてないで、お父さまになんかお話をしてあげて頂戴よ。退屈してらつしやるんだから……」
「ちよつと待つて……いま大急ぎでこれだけ食べちまふから……」
啓子は伊勢蝦の肉を剥がすのに夢中である。
「わしは、ちつとも退屈なんかしとりやせんよ。それより、今日は好い機會だから、みんなに云つとくが……志摩一家もこれまではまづ順調な道を歩いて来た。しかし明日はどうなるかわからんよ。わしのからだも何時までといふ保證はできんし、財産もいろんな事情で一切人手に渡るやうなことがあるかも知れん。もちろん、わしの生きてゐる間は、みんなが食ふに困るやうな状態にはせんつもりだが、少くとも、すべての點で、贅澤は禁止だ。今からその覚悟をしてもらはにやならん。泰彦には、三喜さんからよく話しといてくれ。具體的なことは追つてきめるから、文句の出んやうにしてほしい」
女三人は、呼吸を殺して、聴いてゐた。
瀧子が先づ口を開いた。
「病院の方が思わしくないんですの?」
「それもある。が、それだけぢやない。病院は、わしが出て行きさへすれやいゝんだが……」
啓子は、その言葉を自分だけに通じる言葉として、ひそかに同感した。看護婦の石渡ぎんが自分に云つたことは、やはり事實だつたのだ。
縁の硝子戸を透して、遠くの海がキラキラ光つてゐた。
(初出:「東京朝日新聞」, 1938年4月27日, 朝刊 岸田國士『暖流』)
※このページでは、原文通り、旧かな遣い・旧漢字で表記しています。
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